引きこもり生活も、既に数えることを諦めてから何日か。
数えていないから無論分からないが、妖ノ宮は今日もまた暇にしていた。
「……」
訂正、暇にしすぎていた。
彼女は今、部屋の隅にじっと佇んでいる。
その視線の先には、札が貼られていた。
それも一枚や二枚ではない。
この部屋はいたるところに、隙間無く札が張り巡らされていた。
しかも、札はただの札でなく、一目で分かるほどの呪札である。
ただ、その効果までは分からない。
一目でそれが分かるような代物は呪札にあらず。
しかし、効果も分からぬようなものが、一面に貼られた部屋で過ごすというのは
中々に居心地の悪いものだった。
「…剥がせば、分かるのでしょうけれど…」
妖ノ宮は、手を握ったり開いたり、忙しなく動かし独りごちる。
初日から、気になってはいたのだ。
これ見よがしに貼ってあるわりに、効果が分からないというのは
いかにも剥がしてくださいといわんばかりではないか。
だが、それをするのはあまりに愚かしい行為である。
物事には必ず理由がある。
この札を、貼っているのにも必ず理由があるはずだ。
そう理性に言い聞かせて、今日今このときまで踏みとどまってきた。
しかし、もはやそれも限界である。
理性は欲望に大概打ち負けるものだ。
元来行動的で攻撃的な生き物である彼女にとって、
この暇は、札を剥がすという誘惑に、耐え切れなくなる程度には
耐え難い代物であった。
妖ノ宮の手が、目の前の札にかかり、端をつまむ。
そうっと、破れないように壁から半分ほど剥がしたところで
かっと閃光が走り、札から輝く霧が姿を現した。
思わず札から手を離し、たたらを踏んだ妖ノ宮に、わき出た輝く霧が襲いかかる。
「っ!?」
攻撃用のものであったのか。
舌打ちをしながらも、それを身を捻ってかわした妖ノ宮だったが、
かわしきった瞬間に、着物の裾が足に絡まった。
「しまっ」
た、の声をあげる前に、輝く霧が渦を巻き、妖ノ宮に再び襲い掛かる。
それを今度は、妖力を使い撃退しようとした妖ノ宮だったが、
彼女がそれを行う前に、いつの間にか、音も立てず
突如として部屋に現れた夢路が、腕を一振りし、霧をかき消した。
「やれやれ」
肩をすくめ、夢路がため息をつく。
「全く手を煩わせるね。凪に用意させたこの守護結界。
手間がかかったみたいなんだけどな
僕は火術以外興味が無いから良くは知らないけど」
「守護結界とは?何から守るのです」
何故丁度良く現れたのか。問いたい気分ではあったが、
まず先にそちらから問うと、夢路の目が妖ノ宮に向いた。
その瞬間、まるで狼を前にした兎のように、落ち着かない気分が妖ノ宮を襲う。
「知りたい?…赤月の部下達だよ!」
その夢路の答えに、妖ノ宮は眉間に力を込めた。
にぃっと、夢路が獰猛な笑みを顔に浮かべる。
「くく、みんな妖に対して憎悪か憎しみしか持っていない奴らだからさ。
お前が半妖だとか、人間混じりだとか、そんなことは関係ないよ。
一応、姫に手を出したら燃やす、とは言ってあるけど」
手を伸ばし、床に落ちた呪札を拾い上げた夢路は
一瞬にしてそれを灰にすると、部屋中に貼られた符に視線を流した。
「みんな殺すこと意外は苦手だし、これ位の備えはいると思うよ」
そう言われても、部屋からほとんど出ない妖ノ宮には、
殺されるとか憎しみとか、そういった物に対しての実感は殆どわかなかった。
ただ、彼らがあまりにも一方的に話し、会話を拒まれるのはそのせいかと
ぼんやりと思っただけだ。
だから、妖ノ宮は夢路の言にそうですかと、頷くだけにとどめる。
それに夢路は鼻を鳴らすと、妖ノ宮に向かって一歩近づく。
「なんです」
「いいや?ただお前はあんまり頭が良くなさそうだから、
もう一回言っておこうかと思って。
最初にも言ったが、僕の言うとおりにしろ、逆らうな、口答えをするな
僕が呼ぶとき以外は余計なことをせずに、
ここで大人しくしていろ。
じゃないと赤月の奴らじゃなくて」
区切った夢路が、手のひらを掲げると、その上にぼっと炎が生まれた。
その炎は見る見る間に大きくなると―霧が行ったのと同じように
妖ノ宮に向かって襲い掛かった。
「なっ?!」
それに反応も出来ず、ただ驚きの声を上げた妖ノ宮だったが
炎は、彼女に当たる前に、音も無く掻き消える。
信じられない気持ちで、夢路のほうを見ると
彼は妖ノ宮に見せ付けるように、もう一度手に炎を生む。
「こういう風にさ、僕が炙っちゃうかもしれないよ」
言葉と同時に炎を握りつぶして、喉の奥で夢路が笑う。
その様子に、妖ノ宮は眦をきつく吊り上げた。
「それがあなたの本性ですか、五光夢路」
「本性?人聞きの悪い。僕はこういう人間だってことを
隠したことは無いよ」
そうなのかもしれない。
思えば、会談の席でも、彼はその凶暴性を隠してはいなかった。
彼は隠していない。
妖ノ宮が、勝手に勘違いしていただけの話だ。
四天王という立場から、理性のある人間であると。
「あなたは…四天相克に勝つつもりはあるのですか、何が目的なのです」
しかし、そうであるからといって、いや、そうであるからこそ
彼の目的が、わからない。
剥き出しの彼自身を見て、とても五光夢路という人間が
神流河を、権力を欲しているとは思えなかった。
「何が目的で私を擁立したのですか」
しばしの間、二人の間に沈黙が流れるが、夢路は答えない。
それに苛つきながら、更に妖ノ宮は問いを重ねる。
「覇乱王神流河正義の遺児が欲しかったのですか。
それとも半妖の子供が欲しかった?
…何が目的なのです、黙っていては」
「ぎゃあぎゃあわめくなよ」
呟くような、小さな声だった。
しかし、逆らえない何かがそこにはあった。
ぴったりと口をつぐんだ妖ノ宮に視線に、夢路は憎憎しげな表情を浮かべる。
「…僕は、餓鬼が嫌いだ。中でも、その鬱陶しい声はいっとう嫌いなんだ、よ!!」
その言葉とともに、彼の体に力が集まったのを肌で感じた。
びりびりと大気が震え、目の前が、紅蓮に染まる。
「っ!!」
ちりりと、髪の端が焼き焦げた。
夢路が炎を出したのだと、気がついたのは反射的に
その場から身を退いてからの事だった。
退かねば、顔が焼け焦げていたに違いない。
「なんという真似をしてくれるのです、五光夢路…!」
「本当うるさいな、お前。餓鬼の声は嫌いだって言ってるだろ。
…そうだな、ここはきちんと約定を交わしておこう。
僕は、お前に飯を食わせてやる。だから、お前は喋るな話すな息だけしていろ。
次に僕の前で声を発したら、僕はお前を、殺す」
「誰がそんな…」
「わきまえろよ、何の妖が混じっていようが籠の鳥に、僕は殺せない。
お前は僕に従うしかないんだよ」
あまりの事態に、唇が戦慄いた。
頭ががんがんと痛む。
そんな妖ノ宮の様子に、薄っすらと夢路が笑った。
「特別に、今のは数えないでいてやるよ。
ありがたく思って、邪魔にならないように隅で人形らしくしてろよ」
じゃあな、と高笑いをあげて夢路は妖ノ宮の部屋から去っていった。
「待て…待ちなさい!五光夢路!!」
叫んだときには既に遅く、夢路の姿は廊下の角を曲がり、消える。
愕然とした気持ちで、開け放たれたままの戸に妖ノ宮はふらふらと近づき
ぴしゃんと音を立てて閉め、そのまま縋るように体を預けた。
目の前が、くらくら歪んだ。
「酷いわ…」
どれが、酷いと指しているのかすら分からない。
性質の悪い悪夢のようだった。
事実、そうであったらどんなに良かっただろう。
しかし、これは現実なのだ。
妖ノ宮の自由は、奪われていく一方だ。
行動の自由は最初に奪われ、今、発言の自由さえ剥ぎとられた。
…もし仮に、今日の約定を無視して、次に会ったときに口を開けば、
夢路は彼が高らかに宣言したとおり、妖ノ宮を燃やすに違いない。
それこそ、燃えカスすらも残らぬほどに。
そう妖ノ宮に確信させるだけの殺気と凶暴性が、夢路にはあった。
「人形らしく、大人しくしてろ…ふふ…言ってくれるじゃないですか」
夢路の最後の言葉を繰り返すと、心の奥が震えた。
悲しみや絶望でなく、ふつふつと燃え滾るような怒りが心を満たす。
こんなに、腸が煮えくり返るような思いをしたのは生まれて初めてだった。
「たわけたことばかり言ってくれて!!」
吼えて、戸を殴りかけた妖ノ宮だったが、
踏みとどまって、手近にあった柱に拳を打ちつけ八つ当たる。
鈍い音がして、殴りつけた腕に衝撃が走った。
「つぅ…」
鈍い痛みが、妖ノ宮にこれは現実なのだということを告げて、ますます心を固くさせる
「負けて、たまるものですか」
ぎりっと、歯を食いしばって、妖ノ宮は見えない夢路の背に向かってべっと舌を出した。
このまま大人しく、彼の言うことに唯々諾々と従う気は、
全くといってなかった。
一夜明けて、朝。
空に昇った太陽のおかげで、空一面が真っ青に染まっている。
その下を、朝餉を取りに夢路と凪と、その他数人の赤月のものたちが歩いていた。
廊下をぎしぎしと音を立て歩き、無言のまま朝餉の用意されている広間へと向かっていると
向こう側から、見慣れた赤い着物の少女がやってくる。
井戸に顔でも洗いにゆくのだろう、こちらのほうにまっすぐに歩いてくる
彼女に声をかけるものは誰もいない。
妖ノ宮の存在を無視して通り過ぎようとした一行であったが、
一行の一歩手前で、妖ノ宮はぴたりとその歩みを止めた。
「………」
無言で夢路が立ち止まった。
目を眇めて、妖ノ宮を見下ろすと、彼女はごそごそと袂に手を突っ込み
『おはようございます』
ぺらりと、半紙を胸に掲げた妖ノ宮に、凪やその他赤月一同のみならず
夢路までもが絶句した。
「…おい、なんだ、それ…」
『昨日、喋るなといわれたので』
あらかじめ用意していたらしく、掲げた半紙を取替え、質問に答えると
妖ノ宮は夢路とぴったりと視線を合わせる。
『おはようございます』
そしてそのまま、見せ付けるように挨拶の言葉の書かれた半紙を
再び掲げ、彼女は胸を張った。
昨日の今日で、なんというくそ度胸だろうか。
いい根性というか、太い神経というか…。
呆然と立ちすくんだ大人たちに、ふっと妖ノ宮が勝利の笑みを浮かべる。
その笑みに、はっとしたように我に帰り、夢路もまた顔に引きつったような笑いを浮かべた。
「それがお前の答えか、妖ノ宮」
『なんのことです、五光夢路』
「いぃ根性じゃないか、えぇ?」
恫喝するような夢路の声に、妖ノ宮はただ、口の端を上げて答える。
その様子に、夢路に昨日の顛末を聞かされていた赤月の者達は
ますます呆然とした。
まさか、あれだけのことを言われて真っ向から、五光夢路という人間に逆らおうとするとは。
「なんか、案外あの子、野に放逐しても生きていけるんじゃないかい…?」
凪が、ぽつりと零した言葉には、赤月の皆は頷くしかなかった。
…なんていうか…なんというか。
姫君というものに対する幻想が崩れていく音が、
約二名以外の全ての者達の耳に聞こえた。
順調に仲が悪くなっています