妖ノ宮と五光夢路、二人の関係は、彼ら二人自身によって始まる前に崩壊した。
妖ノ宮は相変わらず、基本的に部屋に閉じ込められたままであったが、
それでもたまに夢路と、屋敷の廊下などで会えば睨みあい、
僅かな顔をあわせねばならない用事の際にやはり睨みあい、何は無くても睨みあう。
おそらく妖ノ宮の言葉が禁じられていなければ、
睨みあうだけではすまず、罵りあいに発展していたことだろう。
そんな彼らを危ぶんでか、赤月の者達は、
妖ノ宮と夢路を出来るだけ会わせないように努力していたが
それでも後見人と、担ぎ上げられた遺児である。
完全に接触がなくなるわけでもなく、そのたびに周囲の者達に
不安と動揺と恐怖を二人は振りまいていた。



両目を閉じた闇の先、広がった黒の向こうにある
真なる御所で一心に懐いて来る御供と戯れていた妖ノ宮は
どたどたと、音を立てて足音が部屋に向かってくるのを聞き
ふっとため息をついた。
どうやら、今日はゆっくり出来ない日らしい。
最後に御供の顎をなでてやって、妖ノ宮は真なる御所を払うように右手を横に薙ぐ。
すると、現れるときとは真逆に、じわじわと闇が消えてゆき
やがて元の剣呑な内装の部屋に戻った。
それを見計らったように、妖ノ宮の部屋の戸が引かれる。
「妖ノ宮」
ずかずかとやはり無言で入ってきた夢路は、
妖ノ宮の名を呼ぶと、彼女に向かって何かを投げつけた。
それをもろに顔面に食らって、妖ノ宮は無言で痛みに呻く。
そうしている間に、夢路が投げてきた何かは
重力に従い落下して、床にぽとりと落ちた。
「なにやってるんだ、鈍くさいな、お前」
あなたのせいですよ!
よほど突っ込んでやりたかったが、それでも無視して床に落ちた何かを拾い上げる。
それは、一通の書状であった。
「丁度いいから、お前行って様子でも見て来いよ」
ろくを説明もしないまま、それだけ言って、夢路は腕を組んで口を閉ざした。
だから、一体何が丁度良くて、何を見に行けというのか。
書状に多分それは書いてあるのだろうが、それにしても偉そうに。
反発心を抱きながら、書状を裏返すとそこには、妹姫翠の名が書かれていた。
翠?と名前を声に出さずに呟き、書状を開くと
そこには是非一度、伽藍派本拠である波斯の森に招きたいという旨が書かれている。
罠かしら。
一瞬頭をよぎった考えを、すぐさま妖ノ宮は打ち消した。
心優しい妹姫に限って、それはあるまい。
そして彼女の後ろ盾は伽藍だ。
他の兄弟ならともかく、半妖の妖ノ宮を伽藍は理想の体現者として特別視している。
多分、悪いようにはされないだろう。
書状をもう一度流し見して、妖ノ宮は筆をとった。
さらさらと招きに応じるという内容を丁寧に書き、
日取りのところで夢路を見る。
『夢路、私の予定で、空いていない日はいつかありますか』
半紙で問いかけると、彼はそれを見てふっと息を吐いた。
「いつでも。好きにすればいいだろ。お前は暇してるんだから」
どうでも良さそうに言った夢路に、暇なのはお前のせいだと思いつつ
妖ノ宮は、五日後そちらを訪ねると書状に記した。
そのままさらさらと、体に気をつけろだとか
きちんと食べているかだとか、そういった細々としたことを書き連ねた後
妖ノ宮は半紙に墨を吸い取らせ、綺麗にたたむと
書いた書状を夢路に向かって差し出す。
『これを、翠の所に届けていただきたいのですが』
「ふん、別に来いって言ってるんだから、好きに行けばいいだろ」
言いながらも、夢路は妖ノ宮の差し出した書状を懐にしまいこみ、立ち去る。
それを見送ってから、妖ノ宮はどさりと畳に倒れこんだ。


「翠…」







五日後の朝、妖ノ宮の姿は波斯の森にあった。
赤月本部から波斯の森へ、長いこと駕籠に揺られて
妖ノ宮と、警護のために凪、額から一本槍を生やした異形の赤月の男
それから駕籠の者達の計五名が、妖の暮らす森の中に足を踏み入れる。
そこは、神秘的な世界だった。
鳥は歌い、木の葉が揺れ、空から降る光がきらきらとそこらかしこを輝かせている。
神流河が、八蔓が、失いつつある自然の息吹を森が宿しているようだった。
それを籠から覗き見ていると、古びた屋敷が徐々に見えてくる。
「見えたよ、あれが伽藍の住む妖屋敷さぁ」
「…あれが」
凪の言葉に、屋敷を凝視していると、屋敷の近くで駕籠は地面に下ろされた。
「さぁ、行っておいで。アタシらはここで待ってるから。
あんまり遅くなるんじゃないよ」
「着いてこないのですか?」
駕籠から這い出た妖ノ宮が凪に尋ねると、彼女は肩をすくめた。
「冗談はおよしよ。あの屋敷には妖が溢れてんだよ?
妖を見たら、アタシら赤月が取る行動なんて決まってる。
それでもいいってんならそりゃ」
「いえ結構。馬鹿なことを言いました、忘れてください」
妖ノ宮は手を横に振り、凪の言葉を遮る。
すると凪は、だろ?とからからと明るい笑みを浮かべた。
そういう笑顔をするようなことは、何一つとして言っていないんだけれど。
思わず苦笑いをしつつ妖ノ宮は凪と他の面々に頭を下げて
屋敷の戸口に向かった。
屋敷の中は、しんと静まり返っているようで物音一つしない。
それに、戸口を叩こうかどうしようか迷っていると、
屋敷の中からパタパタと軽い足音が近づいてきて、戸ががらりと開いた。
「姉さま!!」
そこから柔らかい茶の髪をした少女が飛び出てきて、妖ノ宮に抱きついた。
「翠」
少女の、妹の名を呼ぶと、翠は目に涙を浮かべながら顔を上げる。
「お会いしとうございました、姉さま」
そのまま、翠は再び妖ノ宮の胸に顔を埋めた。
幼い身で家族と引き離されて不安だったのだろう。
力の限り抱きついてくる彼女の背を、優しく撫でていると
いつの間に来たのか、戸口からまっすぐに伸びた廊下の真ん中に
困ったように佇んでいた伽藍と目が合った。
「伽藍」
「あぁ、妖ノ宮、よくおいでになった」
迎えの挨拶を口にした伽藍だったが、抱きついたまま離れない翠を
どうするべきか迷っている様子で、そのまま口ごもってしまう。
仕方なく、ぽんっと翠の背中を叩くと、翠は少しの後に妖ノ宮から一歩離れた。
その代わり、手を伸ばしてきて妖ノ宮の右手を取る。
「姉さま、折角いらっしゃってくださったんですもの、少しはお話できるのですよね?
今、お茶菓子とお茶を用意いたしますから。ゆっくり、していって下さいね」