「夢路、入りますよ」
夢路の部屋の戸が数度叩かれ、主が返答を返す前に戸が引かれる。
それを夢路は特別咎める事も無く、入ってきた男の方へ体を向き直らせた。
「凪からの鳥の報告によれば、妖ノ宮は無事波斯の森についたようですよ。
聞きますか」
一枚の符を男は差し出す。
それを乱雑に払うと、夢路はどっかりと横の机に片肘をついた。
「結果の分かってる報告なんざいらねぇよ。
それより火斑、あっちはどうなってんだ」
「…あっち…開く鍵の方ですか。そちらはまだなんとも。
情報は集まってはいますが、確定というほどでは」
いくら鳥がいても、鍵が無くては夢路がどうしても叶えたい願いには届かない。
首を振る火斑にあからさまに舌打ちして、夢路は机を神経質に叩く。
「もう長いこと集めてんだろ。どうにかなんねぇのかよ」
急激に機嫌の悪化した夢路の姿に、火斑は少し目を見張った後
机の上に積まれた大量の書状巻物を目にして、ため息をついた。
それを気にすることも無く、夢路はしばしの間むっつりと黙り込んだ後
火斑に向かっておい、と声をかける。
「探索の奴ら、全員似せ星について探らせろ。
意問山の方は後で良い」
「良いのですか?」
「分けて成果が上がってこないんなら、
まとめてしらみつぶしに探させるしかねえだろ」
機嫌が悪いまま嫌そうに吐き捨てた夢路に頷き、
火斑は懐に手を差し込んだ。
そしてそこからまとめられた書状を取り出すと、無理やり夢路に押し付ける。
「………………おい、なんだこれ」
「近隣の村々からの、妖被害に対する赤月出動の要望状です。
それと、諸侯からのわけの分からない書状」
「…選り分けろよ」
「手が足りません。自分で目を通してください」
じゃ、と片手を挙げて出て行った火斑に、恨みがましい視線を投げかけ
夢路は受け取った書状に視線を落とした。
小指ほども厚みのあるそれは、いったい何通あるものなのか。
「あぁー!!めんっどくせぇ!!」
考えただけで、背筋が薄ら寒くなって、
思わず夢路は書状を机に思いっきり叩きつけた。
ひらひらと衝撃で書状が舞う。
それに思わず夢路は、これをすべて燃やしてしまったら
無かったことにならないだろうかと、
どうしようもないことを考えた。
案内された部屋は、地味ながらも落ち着く造りとなっていた。
運ばれてきた菓子と茶に舌鼓を打ちながら、
久しぶりの姉妹の再会を喜んでいた妖ノ宮と翠だったが、状況が状況である。
話題は自然と、四天相克のことについてに移っていった。
「………四天相克、この調子では長引きそうですね」
ぽつんっと、茶を持ったまま翠が呟いた。
他勢力の状況を把握していない妖ノ宮が黙っていると、翠は更に言葉を続ける。
「大叔父様は、鳩羽様を妨害し、足を引っ張っています。
夢路様と伽藍様もまた。そのせいで四天王の誰もが
国の長になれるほどの権力を手に出来ていません。
…どうして人は争いあうのでしょう。
この戦いは長引けば長引くほど国を蝕むだけ。
益など何もないと分かっているのに」
「……翠」
暗い顔をした妹に、かける言葉を妖ノ宮は持っていなかった。
ただ黙って、翠の手を握る。
しばらくの間二人はそうしていたが、やがて翠が妖ノ宮の手を握り返し、深々と頭を下げた。
「…姉さま、申し訳ありません。言ってもどうにもならないようなことを言ってしまって」
「いいえ、いいのよ、翠。あなたがそう思うのも仕方が無いことでしょう。
そう、あなたが言うように、この戦いには何の益もなく、
そしてそのくせ私達遺児を含め、たくさんの人間の命が賭けられているのだから」
翠の年は若干十歳。
それなのに、神流河の血筋であるというだけで、
このような血生臭くおどろおどろしい権力の争いに巻き込まれているのだ。
先ほどのような言葉など、思っている不安不満の十分の一にも満たまい。
可哀想に。
たまらなくなって、妖ノ宮は翠の体を抱きしめた。
すると翠は少しの躊躇いの後、妖ノ宮の腕に顔をきつく押し付けると、その背を小さく震わせる。
知り合いも何も何もいない中で、独り。
敗北すれば処刑、周囲は利益を得るために群がる虫ばかり
味方は殆ど人で無く妖。
「えらいね、翠」
頭を撫でてやると、僅かに翠はひっっと嗚咽を漏らす。
どうぞこれ以上、この優しい子がつらい目にあいませんよう。
敵陣営である妖ノ宮には、祈ることしか出来ない。
だからそばにいる間、会えた間に目一杯優しくしてやりたかった。
「姉さま、姉さまは怖くないですか」
「…そうね…」
腕の中の翠の問いかけに、妖ノ宮は困る。
目の前の危機に追いやられ、彼方へ行ってしまっているから
四天相克は、もうあまり怖くない。
大体、情報が全く入ってこないから、時折相克は本当にまだやっているのだろうかと
不安になるときもあるくらいなのだし。
しかしそれを翠に言うわけにもいかず、妖ノ宮は視線を彷徨わせると
「そうね、あなた達と一緒に暮らせなくなることが、私は一番怖いわ」
と、嘘ではないが、本当でもないことで濁した。
すると翠は、目元を袖でこすった後、明るい顔で妖ノ宮を見た。
「私か姉さまが勝てば、皆一緒に住めます!
姉さま、伽藍様はとても高潔で親切な方です。
妖の皆様方も、とても親切です。
ねぇ、姉さま、私が勝ったら、姉さまは私と一緒に住んでくださいますか?」
ぱぁぁっと顔を綻ばせた翠に、どうしたものかと考える。
私か姉さまかといわれたところで、自分の後ろ盾である五光夢路の目には
おそらく四天相克は映っていないだろう。
彼は何か別のことで妖ノ宮を欲したのだ。
その何か、は分からないが、僅かな邂逅と今までの彼らの動きから、
そう確信していた妖ノ宮は、曖昧に翠に頷いた。
自分が勝利者になるようなことは、多分あるまい。
「そうね、貴女が勝ってくれたら、私も嬉しいわ」
妹の頭をなでると、さらさらとした細い髪が流れた。
嬉しそうにはにかむ翠の姿に、このままここに居られたらと
どうにもならないような考えがふと頭の隅に浮かぶ。
しかしそれは夢だ。夢でしかない。
外には赤月の者達がいる。妖ノ宮は逃げられない。
妖ノ宮は感情を隠して、翠の髪を横に流すと、手を戻した。
「伽藍」
これまで姉妹の会話を邪魔しないよう、黙って横に控えていた森の長を呼ぶと、
彼は妖ノ宮のほうに顔を向ける。
「翠をよろしくお願いしますね」
微笑み頼むと、伽藍は深く頷いた。
「まかせよ妖ノ宮。…夢路のところでは、ヌシも何かと不自由だろうが
しばしの辛抱だ。すぐに相克も終わらせる」
「私も伽藍様のお手伝いをいたします。
姉さまと一緒に暮らせるように」
ぎゅっと、着物の袖に縋った妹に、愛しさと寂しさを覚えた。
城にいた頃は、兄弟は皆揃っていて、父親も…父親らしいことなど
何一つしてくれなくても生きていた。
何も無く、皆一緒にいられた。
しかし父が欠け、兄が欠け、兄弟は皆散り散りになって、
もはやあの頃に戻ることは不可能だと、改めて一緒に暮らせるようにという
翠の言葉に気がつかされる。
翠とは一緒に暮らせるかもしれない。
だけれども、きっと、詮議と極楽丸とは…。
国取りという壮大な遊戯に魅せられ、その先にある権力を欲していた様子の
二人を思い、妖ノ宮は翠にばれないように、小さく小さく嘆息した。
あの二人とは、もはや道が交わることはあるまい。
生き残った兄弟が皆揃うということも、もはや幻想でしかないのだ。
伽藍と翠に見送られ、妖ノ宮が屋敷から出てくると
地面に座っていた凪と赤月の男が立ち上がった。
「もう帰るのか、姫様」
頷くと、妖ノ宮は駕籠に乗り込む。
持ち上がり、景色が流れ始めると、見る見る間に屋敷は遠くなってゆく。
その様を見ながら妖ノ宮は、次に翠に会える機会はあるのだろうかと
今生の別れになるかもしれない妹姫の姿を
頭の中で思い返していた。
「よいのか、翠。もう少しは妖ノ宮と話が出来たであろうに」
「良いのです、伽藍様。姉さまも忙しい身。
私にばかりかまけている訳には参りませんもの」
寂しさをこらえて翠が健気に笑う。
そのいじらしさに心をうたれ、伽藍は四天相克を早急に終わらせる決意を
ますます強く固めた。
人の政治のことは分からぬが、早くに二人が暮らせるよう。
幼い姉妹のために、そしてなにより人と妖のともに暮らせる世という理想のために。