近頃妖ノ宮の眠りは浅い。
なぜかといえば、悪夢を見るからである。
自分の意識が妖となり、人間としての自分がどこかへいってしまう夢。
金色に目を光らせた妖ノ宮に、朱色の瞳の妖ノ宮が消されてしまう夢。
情けないと、心を強くもてない自分をふがいなく思う妖ノ宮であったが、
何が良く転ぶかは分からないものだ。
今日もまた夜更けに目を覚ました妖ノ宮は、
自分の真上で、なにかごとりと音が立ったのを聞いた。
最初はねずみかとも思ったが、それにしては音が重い。
…忍びだろうか。
思って、もしそうならば酔狂な忍びだと、心の中で笑う。
こんな閉じ込められている遺児のところに忍んできても、何の得も無いだろうに。
しかし、もしも今思ったことが真実ならば、こうやって呑気に寝転んでいる場合ではない。
何も諜報活動に使われるだけが、忍びではない。
暗殺を狙っている可能性もある。
どうしようかと躊躇ったものの、武術の心得があるわけでもない妖ノ宮が
取れる手段は一つしかない。
妖力を使いたくはないが、今、死ぬのは嫌だ。
かっと目を見開いて、妖ノ宮は音のした天井辺りを炎でぶち抜いた。
「ぎゃ!!」
するとつぶしたような悲鳴が上がり、鈍い足音が続く。
「曲者!!!」
声を張り上げ叫ぶと、途端に廊下が騒がしくなり、幾人もの激しい足音や怒号が響き始めた。
「まさか、本当に忍びだったとは…」
ひょっとして夢路派は、四天相克で良い位置につけているのかしら。
考えながら天井を見上げると、そこには見事に大きく丸い穴が開いていた。
端は黒焦げ、ぶすぶすと煙が立っている。
「いやだ、水、水…」
周りに引火しないように、一瞬で周囲を炭化させるよう火加減は調整したつもりだったが
やはり、つもりはつもりだったらしい。
慌てて立ち上がった妖ノ宮だったが、彼女が水差しをとる前に
激しい水流が、妖ノ宮の開けた穴に降りかかった。
人の気配を感じて振り返ると、そこには後ろで髪を一つに束ねた、見たことのない男が立っていた。
他の赤月のものとは違って、仮面をかぶっていない。
妖ノ宮は、警戒しつつ男から距離をとった。
「あなた、誰」
「火斑といいます、妖ノ宮」
名乗り、妖ノ宮を見た後、火斑は天井を見上げた。
その視線は、開いた穴に向けられている。
「すごいですね、あなたが、でこれをやったのでしょう?」
「え、えぇ」
「…さすがは、妖の血が混じっているだけはある」
その声にはあからさまな侮蔑が混じっていた。
激しかけた妖ノ宮だったが、相手をするのも馬鹿らしい。
無視をしようと黙っていると、火斑が一歩妖ノ宮に近づく。
「…なんです」
「いえ、妖力を使った後ですから、瞳を見せていただこうかと思って。
報告によれば、金色に瞳の色が変わるらしいですね、あなたは」
「っ寄らないで下さい!」
伸びてきた手を払いのけ、妖ノ宮は火斑から距離を取った。
それにわざとらしい驚きの表情を浮かべ、火斑が妖ノ宮に腰を折る。
「おや、これは申し訳ありません。…しかし私達は赤月ですからね。
妖混じりならともかく…妖をここに置いておくわけにはいかないのですよ」
「………………そう」
「えぇ。力の使いすぎには気をつけることです。
でなければ、我々はあなたを拘束しなければいけなくなる。
力を使うたび、人としてのあなたは削られ、妖としての本性が剥き出しになることでしょう。
そうなれば、妖となったあなたなど野放しにはして置けませんから」
言い置いて、火斑は妖ノ宮の部屋から去っていった。
それを見送った後、妖ノ宮はため息をつき、その場に座り込んだ。
しばらく俯いていた妖ノ宮は、姿鏡の置いてある方向を見かけて、やめる。
見たくない。
もしも金だったら、怖い。
いやだ。
昔から、半妖であったせいで妖ノ宮の周りには人がいなかった。
それは覇乱王の子だというせいで、遠巻きにされていた他の兄弟も同じだったけれど、妖ノ宮は、殊更。
妖の血は、妖ノ宮を守る大事な力であり、母親と繋がる唯一のものであり、それと同時に孤独の象徴でもあった。
それでも、以前は寂しくなかった。
いくら他人が近づかないとはいえ、妖ノ宮には他の兄弟がいた。
しかし、半妖ではなく妖となってしまえばどうだろう。
伽藍のように、人の中で生きたがる妖も居るが、大半は人を食料か邪魔な小虫のようにしか思っていない者ばかりだ。
妖ノ宮が身も心も妖になったとして、今のままで、もしくは伽藍のようになれる保障がどこにあるのか。
このまま力を使い続け妖ノ宮が人を捨てた時、兄弟ですらこの身は傷つけるのかもしれない。
ぞっとするような想像が頭をかける。
それだけではない。
力を使うたび、人としての自分をも奪われるということは、
半妖として生きている『今の』妖ノ宮が少しずつ死んでゆくということだ。
それは緩やかな死だろうが、恐ろしいことに変わりはない。
妖ノ宮は俯けた顔を膝にうずめる。
もう何も考えたくなかった。
暗闇の中、ほうっと蝋燭に明かりが灯る。
自室にて、妖ノ宮が忍に襲われたと報告を受けた夢路は、ふぅんと生返事を返した。
いつものことだ。
これが妖退治のことだったなら、的確に判断するくせに、本当に興味が無いものには、指すら動かそうとしない。
報告をしに集まった火斑と凪は、顔を見合わせどうしようかと目配せする。
いつもならば、どちらかが案を出して場を終わらせるのが常であったが、
今回に関しては、いつもと様子を違えた。
なんと夢路が、真っ当に命令を下したのだ。
「護衛でも、増やしとけよ。それで片がつく問題だろ、そんなの。
いちいち僕のところまで持ってくるな」
夢路が放った思わぬ言葉に、二人ともがぎょっとした。
それを面倒そうな表情で見て、夢路は手で追い払う仕草をしながら欠伸をする。
「いいから、分かったら出て行けよ。僕は眠いんだ」
目を細め、不機嫌そうな顔をした夢路に、火斑は頷き凪に退出を促す。
「わかりました。では、そのように」
「あぁ」
音を立てて戸を開け外へ出ると、煌々と空には月が浮かんでいた。
「夢路は…一体どうしたんでしょうね」
廊下を歩き、夢路の部屋を離れたところで、火斑が凪に話しかける。
いつもの夢路であれば、お前らの好きにしろと言うか、放っておけと言うか。
それともむっつり黙り込んでこちらの発言を待つか。
いずれにせよ積極的に働きかけようとはしなかったはずだ。
彼に何があったというのか。
火斑の言葉に凪は考え込むような様子を見せる。
「………計画に妖ノ宮は必要だからね。
再三アタシやアンタがそれを口を酸っぱくしていってたんだ。
やっとそれを聞く気になったのか、
よっぽど眠たくて早く切り上げたかったかのどっちかじゃないのかい」
「それとも、二つ目の鍵が見つかって、ようやく見えてきた終わりに
計画の無事を意識し始めたか、ですね」
返した火斑の言葉に、凪はおやと呟く。
「見つかったのかい、二つ目は」
「えぇ。少しばかり手こずりましたが、なんとか。
これで、半妖なんかが本部にいる生活とももうすぐおさらばですね」
「……………そうだね」
計画ももう、折り返し地点に来ている。
完遂される日も近い。
そうなれば、あの少女の顔を見ることは―。
複雑な表情を見せる凪に、火斑は冷えた表情を向けた。
その唇が物言いたげに動くが、結局何も語らず、火斑は黙って歩みを進める。
そのうちに、曲がり角で二人は別れ、火斑は自らの部屋に帰った。
戸を静かに閉め周囲を確認すると、火斑は唇を歪める。
「はじめから、あれをどうするのかなど分かっているのだから
心など移さなければよいものを」
廊下での姿を見ると、凪は唾棄すべき感情を妖ノ宮に抱いているようだった。
…ひょっとすると、今日の夢路の態度も、彼女と同じなのかもしれない。
長く共にいるうちに、切欠があって情が移る。
感情の制御もろくに出来ないあの男なら、あり得ない事ではない。
調停が、夢路の動きを報告するようこちらに頼んでくるわけだ。
火斑はふんっと鼻を鳴らした。
…計画とは、何か。
赤月では、それが夢路が言い出したことのように言われているが、それは違う。
覇乱王を失い、嘆く夢路に、調停が話を持ちかけたのだ。
―覇乱王、神流河正義を幽冥の底から引き戻してはみないか、と。
鍵として、八柱のオロチに力を与えられたとされる大妖の力を使い
八蔓の中央にある意問山の奥深くにある幽冥へ続く道を開けば、
血縁者の血肉を生贄にささげ、覇乱王神流河正義を蘇らせることが出来ると。
そこに何の意図があるのかは、火斑も知らない。
ただ、夢路は彼らの意図を考えること無く、一、二もなくその話に飛びついた。
そして、調停が夢路にその話を持ちかけたとき、火斑は既にその計画の内容を知っていた。
これは、夢路も知らないことではあるが、火斑は調停から赤月へ派遣された、目付役のような存在だった。
ただでさえ凶暴な夢路が、調停の手を離れ、暴走しだしたときに知らせる間諜である。
幸いにも、その役を果たすような機会は今まで訪れなかったわけだが
計画に夢路が是と頷いた後、調停は火斑にさらに計画に対する夢路の動向を報告するよう命じてきた。
夢路の覇乱王に対する執着っぷりから見るに、そんなものは必要なく
放っておいても夢路は計画をやりとげるだろうと、火斑は考えていたわけだが…。
「調停は正しかったな」
独りごちて、それはそれで面倒だと火斑は思う。
計画は、必ず遂行させなければならない。
そうでなくては、困る。
火斑には、どうしても計画を成し遂げなければならない訳がある。
だからこそ、調停は火斑に目付役だけでなく、計画の動向を監視させる役も頼んだのだ。
「玻璃…」
刀の名を呟き、火斑は腰に下げた刀の柄に、そっと手を触れさせた。
火斑には妹が居た。
玻璃という名の可愛い妹。
無残にも、妖に殺されてしまった可愛い可愛い…。
火斑は妖が憎い。妖の血が流れている半妖も憎い。
だから、火斑だけは絶対に、妖ノ宮を殺すことに躊躇いを覚えたりはしない。