「出かけるぞ、妖ノ宮」
………どこに。
断り無く部屋に入ってくるのは良いけれども
主語述語をきちんとつけて、こちらに分かるように喋って欲しい。
相も変わらず、意味のわからない夢路の喋りに、
妖ノ宮は眉間にしわを寄せ、どこにですと、問いかけた。
無論、喋れないから筆談でだ。
それに夢路は意問山と答えを返す。
『意問山?何をしに』
ぱちくりと目を瞬かせ、妖ノ宮は再度問いかけた。
意問山とは、神流河の中央にそびえる巨大な火山だ。
火のオロチの意を問うという意味の名を持つ山で、
火のオロチ火焔王が眠っているとされる。
あんなところに行って、一体何をしようというのか。
ただ、聞いては見たものの、いつもの様に「良いことさ」だとか、
「お前に何で説明しなくちゃいけないわけ」だとか、返されるものだと思っていた
妖ノ宮だったが、夢路は予想に反して
「ふん、ちょっと霊山の賢者共に用があってね。
お前には、奴らを誘い出す餌をやってもらうよ」
と答えた。
それに僅かに驚きつつも、餌という聞き捨てならない単語に眉をしかめる。
『餌ってあなた…』
「お前の妖力は、奴らを誘き寄せるのに丁度いいんだよ。
分かったらさっさと用意しろ。
僕も赤月の奴らも、お前と違って暇じゃない」
お前と違ってを強調しつつ、夢路はさっさと妖ノ宮の前から去っていった。
その言われように、妖ノ宮は頬を引きつらせながら立ち上がる。
「暇で、悪かったですね」
言ってみて、非常に物悲しい気持ちになる。
食っちゃ寝食っちゃ寝、仕方が無いとはいえ、いい加減人間として真っ当に生活がしたい。
ため息を一つ零した妖ノ宮だったが、ふと気がついて戸口の方を見る。
そういえば、今日は癇癪も起こされず、睨みあいもせず、夢路とまともに会話が成立した。
今までだったら、一つ問いかけたところで険悪な雰囲気になっていたはずだが…。
ほんの僅かに首をかしげた妖ノ宮だったが、いつまでも考えているわけには行かない。
彼女は外出の支度をするために、忙しく動き回り始めた。











一方、その頃波斯の森にある伽藍の妖屋敷では、伽藍が妖に報告を受けていた。
「妖ノ宮は、赤月の本拠地の奥の間に閉じ込められておるようでした。
かなり強い結界が張られているようで、私では傍によることすら…」
「むぅ…」
唸る伽藍に、狐のなりをした妖は慌てた様子で
「いえしかし、それほど不自由している様子はありませんでしたが…」
「ぐむぅぅぅ…妖ノ宮…なんと不憫な。
あの無法な赤月どもに囲われているなど………
やはり、無理にでも我が守ってやるべきだったか! もしもいざというときになれば…良いな」
目の前の妖の言葉すら耳に入らない様子で、伽藍がぐっと拳を握る。
その様子に狐のなりをした妖は、首を横に振った。
「我らは伽藍様のされる事には逆らえませんからな。
そのときには必ず…」
「伽藍様?」
戸が開き、翠が顔を覗かせた。
それを見て、伽藍は顔を綻ばせると、彼女を手招きする。
「おぉ、翠。こちらに来なさい。ヌシの姉君のことで相談が…」











意問山の中腹、頂へ至る道の途中にある開けた場所で、血飛沫が上がり、悲鳴と怒号が飛び交いあっていた。
夢路と妖ノ宮を含む赤月一行が、意問山の中腹へ差し掛かったとき、大量の妖が彼らを取り囲んだ。
その妖は倶理擂。
火炎王が眠るとされる意問山を守る、強大な熊の妖である。
霊山の賢者の名を冠す彼らは、非常に高い知性を持っていて、一応は穏やかな性格をしている。
夢路ら赤月を前に、倶理擂達は「ここから用が無くば、先は引き返すように」と告げた。
しかし夢路はそれに対し「僕達はお前達の頭領に用があるんだよ」と返す。
その返答に倶理擂達はざわめいた。
赤月たちが自分達の長に何の用があるのか。
しかし、夢路は問いただしても「お前達には用が無いんだよ、頭領を連れてきな」の一点張り。
次第に両者の雰囲気は険悪になり、やがて焦れた倶理擂達を赤月側が挑発する形で、戦闘が開始されたのであった。
「無残に砕け散るがいい、猿どもよ!」
倶理擂の腕の一振りによって、幾人もの赤月の者達が吹き飛んだ。
びしゃっと音を立て、大地に血溜まりが出来る。
赤月と倶理擂、その力の差は圧倒的だった。
陰陽術を赤月の者達が繰り出すその前に、倶理擂によって薙ぎ払われ吹き飛ばされる。
これが倶理擂が一匹であったのならば話は別であったのだろうが、
彼らは何十匹と群れ、赤月のものの周りを取り囲んでいる。
数で押せもせず、単体の力では倶理擂達に敵わない。
戦いは一方的であり、場に響くのは赤月の者達の悲鳴や夢路に対する懇願が殆どだった。
「だ、駄目ですこいつら強すぎる!!」
「頭っ」
請われて、夢路が面倒そうに閉じていた手を開き、手のひらを上向ける。
「…雑魚はとっとと燃えろよ。左掌に浮かべ『爆燃赤炎陣』!」
夢路がそう叫んだ瞬間、凄まじい炎が爆発し、夢路の目の前に居た倶理擂五匹が跡形も無く消し飛んだ。
そのあまりの威力に、倶理擂達の間には動揺が広がる。
「これが…赤月の頭領紅蓮の夢路の火術………」
しかし倶理擂達が動揺していたのも一瞬のことであった。
平静を取り戻した一匹の倶理擂が、近くの赤月隊員を吹き飛ばす。
「…確かにお前は強い!だが他のものはどうだ?こうして我らに一方的に嬲られているではないか。
他の者の助力も期待できず、お前一人で何十と居る我らを殺しつくせるか?!」
「っち」
舌打ちして、夢路が鋭い目で、生き残った赤月たちを見た。
「お前ら、死ぬ気で戦えよ!僕は頭領のために力を温存しておきたいんだ」
「死ぬ気って、死にます!」
事実、息絶えたものたちの屍が、山のように辺りにはあった。
怯える赤月隊員たちに、侮蔑の視線を投げかけた夢路は、ふと傍らで立ち尽くしていた妖ノ宮に視線をやった。
「…妖ノ宮」
目の前で起こる虐殺に、妖術を使い、赤月たちに加勢しようかどうしようか
迷っていた妖ノ宮はその呼びかけに顔を上げる。
「お前ってさ、妖術で人の心操れないわけ。
もしやれるんだったら、赤月から恐れる心全部取り除いちゃえよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
頭?!と叫ぶ赤月の者達の声が、やけに遠く感じる。
「怖いとか何とか舐めたこと言ってるから、ろくに反撃も出来ずに死ぬんだよ!
どうせ使えない駒なら、使えるようにするしかないだろ」
「あ、妖ノ宮様!」
縋るような視線がこちらに向けられる。
人の心を操るだなんて、そんなことはしたことが無い。
しようと思ったことも無い。
だけど…自分の持っている、力の使い方は分かる。
だから、それがやれるかどうかも、勿論わかる。
そして、人心を操るのは、可能か不可能かでいえば…。
一歩、妖ノ宮は後ろに下がった。
しかし、夢路に腕をつかまれ引き止められる。
「やれるんだな。やれよ」
表情から読んだ夢路が、妖ノ宮に短く命令した。
その言葉に妖ノ宮の心は平静を失う。
妖の力を使い、半妖から、妖へと変貌するのは怖い。
だけど、これはそんなものじゃない。これは違う。
人心を操り、人を死地に向かわせ、妖を殺させる?
そんなこと、人の道から外れている。
そんなことをするのは、もはや半妖ですらなく、ただの、ただの妖ではないか!!
『ねぇ、代わりましょう?』
いつかの夢の少女の声が頭に響く。
ぐらぐらと地面が揺れている気がした。
眩暈がする。
「さっさとやれよ!」
「あ、妖ノ宮さま!そんなことっやりませんよね!?」
両側から大きな声で叫ばれて、耳の奥がわんわんした。
ぐいっと腕が引かれる。
夢路が妖ノ宮の腕を強引に掴み、引き寄せたのだ。
それに喉の奥をひゅっと鳴らして、妖ノ宮は呼吸を止めた。
心臓が細かく動悸を刻み、わけが分からなくなる。
いやだ、怖い怖い怖い怖い、妖になるのは嫌だ
妹を弟を兄を傷つけるのは嫌
一人は嫌、一人になりたくない
人でないものになるのは嫌
だって嫌だ、私が死んでしまう!!!
「いいからやれ!僕は正義を取り戻したいんだ!早くしろ、妖ノ宮ぁ!!」
「―――――――――っ!!!」
怒鳴られて、ついに、妖ノ宮の感情が振り切れた。
声にならない叫びを上げ、がむしゃらに掴まれた腕を振り解き、むちゃくちゃに振り回す。
すると、指先に強い衝撃が走ったかと思うと、ぬるりと、嫌な感触があった。
ゆっくりと、顔を上げると頬を手で押さえている夢路がいた。
押さえた指の間からは、赤い赤い、血が。
こちらを、妙にぎこちない動作で夢路が向く。
視線と視線が絡み合い、妖ノ宮は夢路の目に、確かに傷ついたような色を見た。
しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間には妖ノ宮の体は吹っ飛んだ。
何がおきたのか分からずにいると、腹部に強い衝撃があり、げふっと咳き込む。
「お前…なにか勘違いしてないか…?」
あぁ、蹴られたのだと妖ノ宮が理解したその瞬間、今度は頭部に衝撃が走る。
目の前がちかちかと瞬く。
その向こうで、般若のような表情を浮かべた夢路が、妖ノ宮を見下ろしていた。
「なに、僕の言うことを拒否しているんだ。
そんなこと出来る立場だとでも思ってるのか、お前………
計画に必要だからって、甘くしすぎたなぁ…妖ノ宮」
低く低く夢路が、囁くように妖ノ宮に喋りかける。
その声音から漏れる怒気殺気が、妖ノ宮の体を竦ませた。
妖ノ宮だけではない。
赤月の者達も、そして倶理擂すらも、気圧されて動けない。
その中で、夢路がざりっと音を立てて妖ノ宮に近寄った。
そして倒れ付した彼女の胸倉を掴み、手を振り上げると、彼女の頬を思いっきり殴る。
ぱぁんっと、いっそ小気味のいい音が立った。
その衝撃で、妖ノ宮の顔は、殴られた方へと飛ぶ。
「―っ」
「おっと、声は漏らすなよ。お前、交わした約定は忘れてないだろう?
声を上げたら、殺しちゃうよ………?」
歪んだ笑顔で、夢路がまた手を振り上げた。
二度、三度、ぶたれるうちに妖ノ宮の真っ白い頬は赤くなり、少しづつ段々と膨れ上がってくる。
「お、お頭、もう、もう止めてくださいっ俺達戦いますから、死ぬ気で戦いますから!!」
「何言ってんの、お前ら。当然だろ。だけどさあ、こいつを殴るのは止めないよ。
だって、僕に逆らったんだぜ?それ相応の罰は与えなきゃ。そうだろ?」
言って、夢路はアハハハハハ!!と激しい笑い声を立てた。
そのまま、握りこぶしで妖ノ宮の頬を殴り、掴んでいた手を離す。
殴られた衝撃のままに、彼女は地面に転がった。
その非道さに、倶理擂達の間にも激しい動揺が広がった。
あんな、いたいけな幼い少女に一方的に暴力が振るわれる。
他種族とはいえ、それはあまりに胸が痛い光景だった。
「さて、じゃあどうしようか、妖ノ宮。燃やされたいか、炙られたいか。
それとも、このまま、殴られ続けてみる?」
「そ、そんなことしたら、妖ノ宮が死んじまいます!」
「いやぁ、死にはしないよ。殺さないように気をつけるからさあ。
二目と見られないような顔にするだけだ。
…いやでも、ひょっとしたら手元が狂っちゃうかもしれないけど」
笑顔で言った夢路に、周囲の者達は皆凍りついた。
このままでは、いたいけもない少女が殺される。
いちはやく硬直から立ち直った倶理擂が、夢路に向かって静止の言葉を投げた。
「もう止めよ!!もう止めてくれ!!」
その声に、ゆっくりと振り返って、夢路は倶理擂を見た。
その瞳には、はっきりと不快の色が浮かんでいる。
「…僕の鎖で繋いだ僕の道具が、持ち主に逆らったんだ。
ただ僕は躾けてるだけだよ。お前に止められる筋合いなんて、どこにもないねぇ!!」
「長にお前は会いたいのだろう!!
呼んで来るから、もう、その子に暴力は振るわないでくれっ」
懇願するように言った倶理擂に、ふぅんと夢路は気の抜けた声を漏らした。
「お前らって、案外細い神経してるんだな。こんなのが」
靴で踏みつけ、夢路は妖ノ宮を表情の無い顔で見下ろす。
「死に掛けるだけで、あれだけ抵抗してたくせに長を連れてくるなんて言ってさ。
…………いいよ。こいつへ暴力を振るうのは、今は、やめてあげるよ。
さっさと連れてきて」
「誰か、あの娘の手当てをしてやれ!長を呼んでくる!」
叫んで、一匹の倶理擂が場を飛び出した。
それを視線で追いかけながら、夢路が倒れ付した妖ノ宮を引きずり起こす。
朦朧としてきた意識で、妖ノ宮が夢路を見ると彼は妖ノ宮の耳に顔を近づけ囁く。
「これで終わると、思っちゃいないよな、妖ノ宮…帰ったら、酷いよ…?」
悪魔のような声だった。
口をぱくりと動かし、妖ノ宮は夢路の着物の襟元を掴む。
しかし、そこで徐々に意識が暗くなってゆき、やがてぷつりと途切れた。
だから、妖ノ宮はその後のことを何も知らない。