目の前で、子供が死に掛けている。
もともと、餓鬼は嫌いだ。
このまま放っておけばいい。そうすれば死ぬ。
着物のすそから除く足も、手も、二日、三日、殴打し続けた子供の体は、鬱血によって赤黒く染まっている。
蔵の中に閉じ込めて、どれだけ殴っても、結局子供は泣きも叫びもしなかった。
ただ、苛烈な目で睨みつけてきただけだ。
それは最後まで変わらなかった。
…本当に、生意気な餓鬼だ。
怖いのなら、怖いといえば良いのに。
そうすれば、遠慮容赦なく燃やすことができる。
だけど、子供はあの一瞬以外は、怖がったりしなかったから。
子供の鼻先に、握り飯を差し出すと、鼻がひくひくと動いた。
丸二日、今日も入れて三日食べ物を与えていないのだから、空腹も限界なのだろう。
飢えたことの無い子供の唇をこじ開けて、無理やり握り飯を突っ込むと
子供は夢の中に居るくせに、もぐもぐと口を動かし食べ物を嚥下した。
押し込み詰め込み、握り飯二つを食べさせると、腹がくちたのか、子供は鼻をひくつかせなくなった。
すよすよと、子供が寝息を立てだす。
その寝顔を見ていると、なんだか胸がざわざわして、分けが分からなかった。
赤月本部は浮き足立っていた。
………意問山から帰ってきた妖ノ宮が、もう三日も庭の土蔵に閉じ込められているのである。
土蔵の中に入れるのは、五光夢路ただ一人。
食事が運ばれた形跡は無く、土蔵近くで立っていると激しい物音が聞こえてくる。
だれもが妖ノ宮の生存を危ぶみ、また機嫌の悪い夢路に怯えきっていた。
「凪姐さん…」
「妖ノ宮のことならアタシも知らないよ…」
今日何度目になるのだろう。
仮面を被った赤月から話しかけられた凪は、首をゆっくりと横に振った。
「…妖ノ宮、あいつ生きてるんですかね…
いや、半妖なんてどうでもいいですけど、どうでもいいんですけど…」
妖術も概ね使わず、ただの少女としてここで暮らしていた妖ノ宮の姿を思うと
どうにも複雑な気分になる連中は随分と多いらしい。
半妖も、妖も憎い。
だが、あれほどまでに「真っ当な」人間として暮らしていた少女が
何倍もの力もあるものに、嬲られ潰されているのは、見ていて忍びない。
仮面の向こうから、気遣わしげな視線を向けられ、凪は肩を落とす。
いずれ…生贄に捧げる相手だ。
血肉さえ残っているのならば、それで良い。
それで良いはずだが…。
嬲られ、虐待されるのは見ていて嫌だとは、なんたる矛盾なのだろう。
どうせ、この手で命を奪う相手なのにねえとため息をついて、凪は上を見上げた。
「いいさ、分かった。夢路に妖ノ宮を出すように言ってきてやるよ」
「凪姐さん」
「どうせ、アイツは計画に必要なんだ。今殺すわけには行かないさね」
ひらりと手を振り背を向けると、途端に重苦しい気持ちに襲われる。
格好を付けては見たものの、言いに行くのか。今の夢路に。
誰であろうと燃やしかねない夢路は、正直いとこの凪ですら恐ろしい。
竦みあがる気持ちを、頬を叩くことで誤魔化して、凪はきりっと背筋を伸ばした。
交渉は気合と根性と気迫だ。
「このまま転がしておけばいいだろ」
妖ノ宮を、もう土蔵から出してやらないかい?
持ちかけた話をきっぱりと断られ、やはり一筋縄ではいかないかと、凪は内心肩を落とした。
しかし、ここで引き下がるわけには行かない。
まっすぐに夢路を見ようとして、彼の放つ凄まじい怒気に気圧され、凪は視線をそらしてしまう。
「でも…あの子…生きてるんだろうね、夢路」
「さあ。この三日間飯も食わせてないし、そろそろ死ぬんじゃないの?」
「っ夢路!」
怒鳴ってからしまったと思う。
夢路の左手が、開かれ上向かされたからだ。
しかし夢路は、そこから炎を出すことも無く、ぷいっとそっぽを向いた。
「……夢路、このまま放っておいて妖ノ宮が死んだら、計画はおじゃんだよ。
覇乱王も生き返らなくなる。…アンタ、それでいいのかい?」
「………」
「……夢路」
「めんどくさい。好きにしろよ」
そっぽを向いたまま、夢路が放った言葉に安堵の表情を浮かべつつ、
凪は即座に蔵に向かって駆けて行った。
残された夢路は、ごろりとその場に寝転がる。
………妖ノ宮が死んだら計画はおじゃん?そんなことは言われなくたって分かっている。
…分かっている。
前に、黒耀や宇梶と一緒に居たあの子供を嬲って遊んでいたときだって、殺すつもりは無かった。
あいつを殺せば、欲しい唯一は蘇らない。
それが分かって踏みとどまるぐらいの理性は、夢路にだってある。
だけど、意問山で彼女が夢路の命令を拒否したとき、
自分でも分からないぐらいの怒りがなぜかこみ上げた。
それこそ感情の制御が出来ないほどに。
いままで、彼女が自分に逆らったことなど、何度だってあった筈なのに。
それは赤月に帰ってからも続き、彼女を土蔵に入れ三日間散々痛めつけてきたわけだが…
不思議と、気分は全く晴れなかった。
何でだと首をひねるものの、答えは見つからず、そのまま夢路は瞼を閉じる。
するとなぜか、暗闇の中であなたなんてこわくないと、掌に書いた妖ノ宮の姿が浮かんできて
夢路はげほっとむせ込んだ。
「もう、痛くも無い………」
目を閉じて、妖ノ宮はぽつんと呟いた。
腕も足も、どこもかしこももう、感覚すらない。
二日間、死なないように殴打され続けた体は、妖ノ宮のものではないようだった。
だって指一本動かせない。
もしかしてこのまま放っておかれたら死ぬのかしら、思って妖ノ宮はふふっと笑った。
死ぬのだとしたら、四天相克で処刑される時だと思っていたのに。
まさか後ろ盾に殺されるだなんて。
くっくという笑いを漏らした妖ノ宮だったが、思ったより体力を使うのでやめる。
…ここまでされると、さすがに憎らしい。
殺せるものなら殺してやりたいと思った。
「夢路め………」
ぼそりと呟いて、ぼうっと天井を眺めていると、土蔵の扉が音を立てて開いた。
どやどやと人が入ってきて、妖ノ宮の体が持ち上げられる。
「大丈夫かい?」
声の方へ顔を向けると、そこには心配そうな凪が立っていた。
「…………ちょっと、体の感覚が無いですね。生きてますけど」
赤月の者達に抱えられながら答えると、凪が着物のすそから覗く
鬱血し黒くなった足に目をやって固まった。
慌てて着物の袖をまくり、手も同じく黒いのを確認すると
凪はすぐさま妖ノ宮を自室に戻すように、彼女を抱えた赤月たちに急いで指示をする。
自室には既に布団がしいてあり、妖ノ宮はそっとそこに横たえられた。
「妖ノ宮、ここに痛み止めと水、置いておくからね。
痛くなったらちゃんと飲むんだよ」
「………ありがとうございます…」
礼を言って、大きく息を吐き肺の中の空気を出すと、途端にずきりと手足が痛んだ気がした。
「………夢路が、出してもいいといったんですか…」
どうでも良かったが、沈黙が気詰まりで言うと、凪はいいやと否定する。
「あんたを出しても良いかって、あたしが説得しに行ったのさ。
放っておいたら、死ぬまで土蔵の中に夢路は閉じ込めそうだったからね。
……怖かったんだよ、感謝しとくれ」
最後の言葉を冗談めかして凪が言い、その言葉にふっと微笑んだ妖ノ宮は
ふと、心の中に何かが落ちるのを感じた。
怖かったんだよ。
「………………」
「どうかしたかい?」
「いえ、そういえば、ご飯も水もとってないなと思いまして…」
二日も食べていないくせに、なぜか腹は減っていなかったが、場を誤魔化すためにそう言う。
それとも、腹が減りすぎて感覚が麻痺しているのだろうか。
妖ノ宮の言葉に、凪はぱちっと瞬きをした。
「あぁ、そういえばそうだね。ちょっと待ってな」
立ち上がり、凪が出てゆく。
厨房に向かったのだろうと、どうでも良いことを考えて妖ノ宮は目を閉じる。
怖かったんだよと、凪は言った。
それは冗談めかした言い方だったが、彼女の本心なのだろう。
凪ですら夢路が怖い。夢路が似せ星の夜に言ったとおりに。
そして、妖ノ宮は夢路を怖くない。
…もしかしたら、妖ノ宮は夢路の手を知らない間に掴んでいたのかもしれないと思った。
そしてその手を思いっきり振り払って傷つけた。
あの意問山の中腹で。
妖ノ宮も、夢路を怖がったと、彼は思ったのか。
そんなつもりは無かったけれど。
だが、一瞬夢路の目に浮かんだ傷ついた色はそういうことだったのだろうか。
―すべて推測だ。
おまけに意味が無い。
彼が命令を聞かなかったことに、腹を立ててこうしたのであれ、
傷ついてこうしたのであれ、妖ノ宮が今傷つき横たわっていることに変わりはない。
そして、傷ついてこうしたのだとしても、許す気も無い。
でも、もしも怖がらないというただ一点で、妖ノ宮の手を掴んでいたのだとしたら。
五光夢路、あなたは
「なんて、寂しい子供なのです」
さすがは覇乱王に父親を見出せる男だと、妖ノ宮は苦笑いを浮かべた。
優しくなんて、撫でた位しかしてやらなかったのに。
それで十分だったならば、あなたはどこまで―。