怪我の療養のため、妖ノ宮が自室に篭もるようになってから
彼女は怪我が治っても外に出歩こうとはしなくなった。
ただ、自室でじっと大人しくしている。
今まで無理やりに散歩に出たり、ふらふらと本部を徘徊していた彼女が
そうしているのは願ったり叶ったりの状況のはずなのに、
なぜか赤月の者達は皆、気まずい空気を味わっていた。
そんなある日のことである。
敵方である伽藍から、妖ノ宮宛に再び書状が届いたのは。

「…伽藍から?」
「ああ。…また呼び出しらしいぜ。どうすんだいあんた」
聞いて、書状を持ってきた赤月の者は妖ノ宮の前に座り込んだ。
返事はこの場で出せということらしい。
妖ノ宮が書状を開くと、そこにはやはり翠からの字で会いたいと書かれていた。
妖ノ宮がどうしようかと迷って目の前を見ると、
赤月の者はぼんやりと部屋の隅に視線を落としている。
好きにしろってことなのかしら。
いくら見ていても、暇そうにぼーっとしている赤月の者に、久しぶりに肩の力が抜けた。
筆と紙を取って返答を書き、目の前の男に渡す。
「お、書けたか。姫様行くの?」
「…えぇ、まあ」
正直、ここに居ても気詰まりなばかりだ。
口ごもった妖ノ宮に、何を思ったのか赤月の男は、まぁいいんじゃないのと呟いて、妖ノ宮から書状を受け取った。
そしてそれは滞りなく伽藍の元へ届けられ、一週間後妖ノ宮は再び波斯の森を訪れる運びとなったのであった。



「姉さま!!」
妖屋敷から翠が転がり出てくる。
それを受け止めて、妖ノ宮は翠の頭をなでた。
「久しぶりね、翠。…少し大きくなりましたか?」
「はい!もう何ヶ月もあっていないんですもの。大きくもなります」
「…そうですね」
複雑な気分で翠の成長を見ていると、屋敷の奥から伽藍が出てきた。
「久しぶりだな、妖ノ宮」
「ええ、お久しぶりです。伽藍」
挨拶もそこそこに、伽藍は遠く向こうで待機している赤月たちを見る。
「彼らは、あそこで待機しているのか?」
「ええ」
この間来たときと面子は違うが、あんなところで待機している理由は同じだ。
妖を見たら、ぶっ殺しそうだから離れてる、だなんて言える訳も無く
曖昧に言葉を濁す妖ノ宮に、察したのか伽藍はそうかと頷いた。
「しかし、今日は森の奥に入ろうかと思っていたのだが…
ついてこなくて良いか、一応伺いを立ててはくれないか」
「奥に?何をしに行くのです」
「何、我らの存在について、ヌシに少し知ってもらおうかと思ってな」
「妖の?」
「大丈夫です姉さま。…綺麗なんですよ」
にこりと、翠に微笑まれて妖ノ宮は口元に手を当てる。
伽藍を見て、翠を見る。
………この二人なら、余計な心配はあるまい。
妖ノ宮は、少し待っててと二人に手を向け、赤月たちに森の奥に入ることを言い伝える。
案の定、あまり良い顔はされなかったが、彼らは最終的には許してくれた。
…意問山よりこちら、赤月のものはなぜか妖ノ宮に甘い。
罪悪感を感じるべきは、彼らではないのに。
思って、妖ノ宮は眉間に皺を寄せた。
夢路とはあれ以来会っていない。
妖ノ宮は、夢路と顔などあわせたくもないし、夢路も同じ気持ちのようだった。
一月に幾度かはあった、夢路の訪問はぷつりと消えうせ、諸侯との会談にも、妖ノ宮は呼ばれない。
それはそれで構いませんけど、ね。
確かな怒りは、この胸にまだ息づいている。
出来ることならこのまま、計画の終わりとやらを迎えてさよならしたい。
厳しい顔をした姉の姿に、そっと翠が寄り添った。
「…翠?」
「姉さま、何かあったのですか?」
「……何かって、なあに」
鋭い妹の頭を、なでてやって誤魔化す。
「あまりくっつくと、転ぶわ」
そっと遠ざけると、翠はそうですね、と答えてしっかりと足元を見ながら歩き出した。
森の奥に入るにつれて、木々の緑は深く、土の匂いが濃くなってきている。
方々に生えた雑草や蔦に、足をとられそうになりながら歩いていると、巨大な岩が段々と見えてきた。
しかし、その岩の周りを見て、妖ノ宮は眉をひそめる。
岩の周りの木々は根こそぎ倒れ、潰されている。
しかもその断面は新しく、まだ折れて間もないようだった。
よくよく見てみれば、岩の向こうの木々は一直線に倒れていた。
まるで、岩が木々を潰しながら歩いてきたかのように。
「………妖ノ宮、あの方を、ヌシに見せたかった」
「あの方?」
疑問を浮かべた瞬間、ふぅっと頭の中に声が響く。
『草葉の冠に、朝露を着衣せし、樹海の雄。森長よ』
「…我が長の座を得てから、百と二十年ぶりですな。
声なき声で己の意を伝える静寂の法。見違えるように上達いたしましたな」
『これを練習するぐらいしか、やることもない。めったに動くわけにもいかんでな』
「それは、確かに」
『さて、伽藍よ。そこの小さな子達を紹介しておくれ』
頷いた伽藍に、巨大な岩…ではなく巨大な妖が促した。
ふと見上げれば、その妖の体は、岩の切れ目と思われた木々の緑を通り過ぎ、
はるか天空までのびている。
それにぽかんと口を開けていると、翠が隣でぺこんと頭を下げた。
「翠です」
「…妖ノ宮です」
慌てて挨拶をすると、はっはっはっと、妖は笑い声を立てて笑った。
『良い子達だな、伽藍』
「はい」
『さて、もう少し話をしていたいところだが…大地に還る時は今なのでね
名残は惜しいが仕方が無い。さあ、伽藍。やっておくれ』
その妖の言葉に、伽藍は妖ノ宮と、翠を振り返った。
「…よく見ておきなさい、妖ノ宮、翠。
名を捨て体を捨て、妖という生を終わらせ、この方が大地へ還る『息吹がえり』を」
伽藍は、妖ノ宮たちの前へ一歩出ると、すぅっと天を高く仰いだ。
ひたりと、巨大な妖と目と目を合わせ、吼える。
大きく、高く、そして歌うように。
「あ」
すると、妖の体から光が沸き立ち始める。
月の光より星の光より、儚く美しい翡翠色の。
「…綺麗」
ふぅっと空に還っていく光を追いかけ、天空を見て妖ノ宮は気がつく。
先ほどよりも、確実に妖の輪郭が薄くなってきていた。
「こうやって、妖は大地に還ってゆくのですって。
八蔓に溶け、すべてを潤し循環する」
いつのまにか隣に居た翠が、妖ノ宮の手を取る。
蛍火のように、儚く光が揺らめいて、次々に消えてゆく。
つながれた手をぎゅっと握って、妖ノ宮はただ、巨体の妖が空に、大地に、空気に溶けてゆく様を見守った。

妖を、還し終えた伽藍は、さすがに疲れた様子でふぅと息を吐いた。
それにお疲れさまでしたと声をかけ、妖ノ宮は天空を仰いだ。
そこにはもう、妖は居ない。
「…あの方は八蔓に還った。ヌシの側にいつでも居るものとなったのだ」
ふわりと、残った翡翠色の光が空へ還る。
その様を見ながら、妖ノ宮は伽藍に向かって頷いた。
どこにも居ない、でも、側に居る。
「……妖とは、不思議ですね。まるで自然そのもののよう」
「そうですね、確かに。還って、生まれ、自然とともにある」
握ったままの手に力を込めて、翠が妖ノ宮の言葉に同意した。
そして、場に沈黙が落ちた。
会話が途切れただけかと思った妖ノ宮だったが、それにしては翠も伽藍も何かそわそわとしている。
思わず眉をひそめた妖ノ宮に、翠がちらりと伽藍の方を伺った。
「…伽藍様」
「うむ」
重く、伽藍が頷いた。
何を言われるのかと身構える妖ノ宮に向かって、ごほんと一つ咳払いをして彼は口を開く。
「…妖ノ宮、その…唐突な申し出であるとは思うのだが…夢路の所を出て我たちと一緒に住まぬか?」
「………え……?」
思わず問い返した妖ノ宮に、伽藍は更に言葉を重ねる。
「すまないとは思ったが、部下達にヌシの様子を探らせたのだ。
するとどうだ、ヌシは赤月の本拠地に閉じ込められているというではないか。
あの無法者達に、好き勝手に自由を奪われ、道具として扱われる。
そんな不憫な状況に、我等はヌシを置いておきたくないのだ」
「え、あ…え?」
肩をがっちりと捕まえられ、熱意を込めて語られる言葉は
妖ノ宮の頭に入ってくるのに時間がかかった。
しばらくかかって、言われたことを頭の中で咀嚼して
ようやく事態を飲み込んだ妖ノ宮は、目を丸くして二人を見る。
「ま、待って、待ってください。今は四天相克の最中ですよ」
「そうだ。しかし、そんな状況下で黙っては見ておれない。
どうか考えてはもらえないだろうか」
きっぱりと言われて、ますます混乱する。
伽藍の顔にも、翠の顔にも真剣さが見て取れて、妖ノ宮は頭を抱えた。
分かってて引き取りたいと?冗談だろう?
「伽藍、本当に分かっているのですか、四天相克
その最中に後ろ盾が遺児を失うその意味を。
夢路が大人しく私を手放すとでも思っているのですか」
「確かに、神流河を奴は狙えなくなるだろうが…」
「違う!夢路が私を失うということは、覇乱王の遺児という
国を狙える大義名分が無くなり、四天相克に負けるということ。
夢路が他の四天王たちに敗者として、真っ向から命を狙われ、諸侯たちに見捨てられる立場になるということです。
彼は私を失えば、国を追われ、流浪の身となる他無い事態になるのです!」
夢路は、計画のために妖ノ宮が必要で、そもそも四天相克など見ちゃいないが
それでも、四天相克に参加することの意味も、負ける危険も理解している。
だから面倒な書状に目を通すし、諸侯と会談だってしたりする。
四天相克は、国をかけた争いだ。
それに敗れ去っていく者に対して、与えられるものなどそんなものは決まっている。
国の覇権を握れなくなる。それだけ?そんな馬鹿な。
伽藍は、良い人、いや良い妖だ。
…そう、妖だ。
だから、自然と一体である生き物故に、薄汚くどろどろとした人の怨念欲望の渦巻く政治は
彼には理解できないのかもしれない。
考えが、直線的過ぎる。
「伽藍、もっと考えて。それだけじゃない。
あなたの行動は、あなたの部下につながるのですよ。
あなたは、あなたの部下の命をもっと大切にしなくてはいけません。
私の後ろ盾は、赤月の紅蓮の夢路なのです。妖の天敵である。
もしもあなたが私を彼から奪った場合、必ず夢路はあなたに報復に来ることでしょう。
それに…彼の襲撃を受けたとき…あなたとあなたの部下は良いかもしれません。
だけど、翠が生き残れる保障は、どこにあるのです」
「姉さま!」
きつい口調に、翠が非難の声を上げた。
けれど、ここを譲る気は無い。
もはや四天相克など、妖ノ宮には半分ほど遠い世界のことだけれど、
この二人にとっては真正面から向き合わねばならないことなのだ。
もっと、ちゃんと考えて。
伽藍をじっと睨んでいると、彼はぐぬぅと唸り声を上げた。
それにほっと息を吐いて、妖ノ宮は二人に向かって殊更にこやかな笑顔を浮かべる。
「…そんなに心配しないで。大丈夫。
こうして、翠にも伽藍にも会いに来られているではありませんか。
自由はあります、大丈夫」
この間、死ぬほど殴られたけれど。
…ともかく、穏やかに言うと、二人はじっと黙り込んだ。
そのまま待っていると、やがて伽藍が口を開いた。
「………そうだな。ヌシの言う通りだ。
…しかし、覚えておいて欲しい。
ヌシが困ったときには、我も翠もヌシの力になりたいと思っている」
「えぇ、必ず。…ありがとう、伽藍、翠」
ふっくらとした翠の頬に手を当てると、彼女ははにかみ笑った。
「そうだ、近々迎旬の祭りが近々あるのだ。良ければ妖ノ宮、ヌシも来ないか?」
「祭りですか」
「えぇ、祭りには人を招いて交流を図ろうと思っているんです」
「そうなの」
こちらを見上げてくる翠に微笑みかけながら、ふと妖ノ宮は夢路の顔を思い浮かべた。
「ちゃんと、仕事はしているのでしょうね…」
久しぶりに四天相克のことを思い出して、その危険性を伽藍に説いたせいで、なんだか妙に不安になる。
諸侯との会議も出れていないのだし、状況把握が完全にできていない。
あの最初のときのような調子で進めてはいないだろうか。
まさか、四天相克の決着がつかないうちに、ぐずぐずに崩れて
敗退なんて事になったりしないでしょうねと、考えたところで、はっと妖ノ宮は慌てて首を振る。
夢路なんてどうでも良いし、考えたりしない。
四天相克もどうでも……
「……良くはないのですよね…」
「姉さま」
きょとんとこちらを見る伽藍と翠に向かって、なんでもないと手を横に振り、
妖ノ宮は彼らに気づかれないように小さく小さくため息をついた。
四天相克など思い出さなければ良かった。
何しろ命がかかっているのだ…謝ったら、許してあげなくも無い気持ちにはなった、今。
身近な危機に、昔の恨みは打ち負ける。
…というか、ぼこぼこにされても妖ノ宮は死ななかったが、四天相克に負けたらほぼ確実に死ぬ。
過ぎ去った過去と、確定された未来の一つでは、恐怖が違うのだ、恐怖が。
謝らなくても良いから、本当、諸侯との会談には参加させて欲しい。
うっかり意地をはっていて、知らないうちに断首はごめんだ。
妖ノ宮はちょっとだけ、何も考えずこのままここに居てしまいたいと思った。