八柱のオロチに力を与えられたとされる大妖の一人、沈蛇湖の銀朱の名は、人嫌いとして有名である。
夢路の計画に必要な大妖の力は、今まで交渉をして貰ってきていたが、今度ばかりはそうはいかない。
戦って力を奪い取らなければならないだろう。
夢路は、配下の術師達に命じ、沈蛇湖の周りに少しずつそれと気づかれぬように
術式を敷き詰め、静かに、銀朱の力を奪える時を待っていた。
そして、いよいよ準備が整う。
激しい衝撃が体を襲い、妖ノ宮は驚き目を覚ました。
目を開くと、いつもの自室ではなく、薄暗い駕籠の中で
また、妖の元に無断で連れてこられたのかと思い、外に出た妖ノ宮を迎えたのは
忙しなく動く赤月の術師たちだった。
「術符拾壱式の準備は!」
「今からです!!拾壱式から拾六式までは、同時に発動予定です」
「よっし、香霊木への火付けを始めろ!」
術符を並べ、霊力をそれに送る者、木片に火をつけその前で祈祷する者。
戦場のような慌しさに、きょろきょろと辺りを見回していた妖ノ宮は
妖ノ宮たちがいる木陰の向こう、巨大な湖の近くを歩く夢路の姿を発見した。
どうやらここは沈蛇湖の近くらしい。
大層な人嫌いである雨露長が住む沈蛇湖に、近づいたことこそなかったものの
側を通りかかったことは幾度かある。
あたりの景色からここが何処なのか見当をつけた妖ノ宮は、赤月の術師たちへ視線を戻す。
そこで、妖ノ宮が駕籠から出てきたことに気がついた赤月の術師が
手元に意識をやりながらも、妖ノ宮に向かって話しかけた。
「おい、妖ノ宮。死にたいんなら動け。死にたくないならそこでじっとしてろよ。
なんせ俺達は今から雨露長と対決するんだ。お前に構ってる暇なんかないぞ」
「雨露長と対決…?」
「そうだ。まともに交渉なんざできる相手じゃねえからな」
「なに、姫様の役目は、仕込んどいた術式の発動の気配を妖力でかく乱させるっつうもんだ。
そこでじっとしてりゃあいい、後は頭が終わらせるさ」
決して手は止めず、集中を途切れさせず、喋る術師たちにそうですかと頷いて
妖ノ宮は入っていた駕籠にもたれかかった。
後方では、赤月の者達が他の妖と戦っているのか、剣戟の音や悲鳴、叫び声が聞こえてくる。
相変わらず、説明の無いまま事を進める。
ため息をつきたいのを我慢して、呼吸も押し殺し、ただ術師たちの邪魔にならないように
身を潜めていると、夢路が湖の傍に到着したのが見えた。
彼が、もう一歩湖に近づこうとした瞬間、湖が波打ち一匹の妖が姿を現す。
「それ以上、湖に近づくなよ、人間」
静止をかけた妖に、夢路がすぅっと目を細め笑う。
「雨露長、銀朱か。僕は夢路だ。さて、早速だがお前の力を寄越しな!」
「ふんっ無礼にして不遜な赤月の長よ!他の土地の妖達が穏健なのを良いことに
その力を薄汚く掠め取ったこそ泥が、そのような口を利いてただで済むと思うな!」
銀朱の方に向かって突き出した手の人差し指を動かし、挑発的な仕草をとる夢路に
般若のような顔をして、殺気を身に纏い銀朱は両手を大きく広げる。
「私は彼らとは違うっ!雨露長の座に就いたのは長きの中で私だけ。
その意味、その力、身を以て教えてやろう!!」
沈蛇湖の水が、銀朱の感情に反応するように波うち、ふわりと空に浮かび上がった。
その光景を、夢路はふんと鼻で笑う。
「傲岸不遜な不老野郎、大した進歩も無いくせに
でかい口を叩いていられるのも今のうちだよ!
ヤロウども、準備は良いな!!」
「なに、あんなところに人間だと!?何故気がつかなかったのだ」
驚きの声を上げる銀朱。
沈蛇湖の周りは雨露長である自分の領域、それが何故。
動揺する銀朱のその隙を突いて、周りに張り巡らせた術符と、妖ノ宮の妖力とで隠れていた
術師たちは一瞬目配せをした後声を張り上げる。
「術符参拾六式、既に発動終わってます!」
「よし、いけるな!」
「発動しろ!!」
所狭しと並べられた術具を取り囲み、術師たちが円になった。
凄まじい霊力が、円の中心から発せられ、風も無いのにあたりの木の葉がざわりと揺れる。
「燐遊陣・発動!!」
うっすらと霊力の形が、肉眼で確認できるほどに高まったところで
術師たちがいっせいにかっと目を見開き、叫ぶ。
それに呼応して、術具たちがいっせいに炭化し、あたりの雰囲気が一瞬にして変わった。
空気が、ねっとりと濃い、絡みつくような霊力を孕む。
それに目を見開き驚く銀朱に、凶悪な笑みを浮かべ夢路がその右掌を開いた。
「余所見なんかしてる暇が、あるとでも思ってんのか!『右掌に宿れ、爆轟青炎陣』!!」
夢路の言葉に応え、右掌に青い炎が生まれる。
それは一瞬にして大火に育つと、銀朱を焼き、湖も舐めつくすように焼いた。
みるみるまに湖は干上がり、半分ほどが大気中に蒸発する。
その力の凄まじさに、妖ノ宮も、赤月の術師たちも言葉を失った。
「すげぇ…」
「銀朱の奴、消し飛んじまった…塵屑すら残ってねぇ!」
銀朱が元いた場所に、彼の姿は無かった。
あの威力、この有様では、もはや生きていないだろう。
勝利を確信した赤月の術師たちは、一気に沸き立つ。
しかし夢路は厳しい表情で半分ほど水を残した湖を睨みつけた。
「…いいや、あれは本体じゃねえ…さっさと出てきたらどうだ、ウロコ野郎」
すると、湖の水の一部がぐぐっと持ち上がり、蠢くと銀朱の姿が現れる。
「この姿は湖の霊水で作った幻、そこまで読んでいたか」
「本体は湖の底にでもあるんだろ?」
「勘の良い人間よ」
夢路の問いかけを肯定した銀朱は、しかしと眉をひそめた。
「…しかし、今のはなんだ。人間には…いや、我ら妖にすら出せぬ破壊力だ。
この湖の水は、ただの水ではないというのに…タネは…燐遊陣とやらか」
「はん、伊達に年食ってねぇな」
探りを入れる銀朱に、夢路は掌に炎を浮かべて答える。
「あの陣は、大気中の燃える力を増幅する。
術符を三拾六式まで組み、それに更に香霊木を燃やした煙を焚かないと
いけないのが欠点といえば欠点だが…発動した今となっちゃ、そんなの意味ない話さ!
沈蛇湖一帯は、もはや僕の庭になったことに変わりはないんだからねえ!」
「なるほどな。闇雲に力を掘り起こし、自然に逆らうか。
ここで潰しておかねば、水のオロチ雨月王に会わせる顔がなくなるなっ!」
「顔どころか、すべて消し炭にして無にやるよっ!!」
双方が吼える。
銀朱は残った湖の水のいくらかを錐の形に変え、夢路に向かって飛ばした。
大気中を駆け、近づく水の錐を、浮かべた炎で掻き消して、
更に炎を生み夢路は銀朱ではなく湖を攻撃する。
「本体を狙うか!」
させじと、銀朱が残った水の錐全てをその炎にぶつける。
じゅっと音がして、白い煙があがる。
それが晴れる前に、夢路が左手を銀朱に向かって突き出した。
「左掌に浮かべ『爆燃赤炎陣』!」
言霊によって赤い炎が生まれる。
それを見た銀朱が、水で膜を作り襲い掛かる炎を掻き消す。
…攻防は一進一退。
どちらも決定打を出せず、戦いは長引くばかりであった。
半刻ほど戦ったところで、苛立った表情を浮かべ、夢路が舌打ちする。
「っち、こっちも力は増してるってのにっ!水ってのがやりにくいんだよっ!」
「ふん、相性という奴だな。炎は水に打ち負ける。
当然のことだ。それを燐遊陣一つで崩した気になるとは…思い上がるな、人間!」
突然に、銀朱の体が湖に溶けた。
かと思うと、湖の水が持ち上がり凄まじい勢いで空を飛ぶ。
水流の帯が、夢路の横を通り抜け、妖ノ宮達の周りを取り囲み旋回し始めた。
「何を?!」
その行動に身構える赤月の術師たちの前に、思いもよらない人間の姿が現れた。
…黒耀と、凪である。
「な、凪姐さん?!」
「こ、黒耀がどうして!!?」
今は二人は本部に残っているはずで、ここに居るはずも無い。
そうと分かっていながらも、何故と混乱する術師たちに、
黒耀と凪の姿がどろりと溶けて、水となって襲い掛かる。
「ぎ、ぎやああああ!!」
鋭く尖った水の槍に体を貫かれ、一人が絶命する。
それを皮切りに、妖ノ宮の周りは赤く染まった。
「ファアーッハハハハハ!!!
我が姿は水っ!水に形は無い。それゆえ変幻自在、更に人の心如き
我が妖力にかかれば手に取るように読めるのだ!
さぁ、愚かしい力を生み出した者達よ、苦悶のうちに死ぬが良い!!」
次々と術者を殺してゆく水に、妖ノ宮はすぅと息を吸い込んだ。
「消えなさい!」
妖力によって業火を生み出し、妖ノ宮は術師たちに襲い掛かる水を焼き払う。
妖力を使いたくは無いが、見殺しにするわけにもいかない。
辺り一帯の水を焼き払った妖ノ宮は、夢路の方へ視線を向ける。
すると、夢路が襲い掛かる偽の凪と黒耀を、その炎で焼き払ったところだった。
「はっ!僕の愛する者はもうこの世にはいないっ!お前の術はきかねぇんだよ!!」
嘲笑い、夢路がその両掌に炎を浮かべた。
右手に青、左手に赤。
それらを解き放とうと、夢路が掌を前に突き出したその瞬間。
「なっ?!」
水は、妖ノ宮の姿に変化を遂げた。
そのことに、動揺した夢路の手の炎の輝きが、いったん弱まる。
「隙ができたぞ!夢路!!」
銀朱の声とともに、妖ノ宮の幻影から、何本もの水の触手が伸び、夢路の全身を拘束した。
「なっ、ばっ!!」
本物はここにいるのに、何をやっているのだ夢路っ!
思わず木陰から飛び出し、湖に向かって妖ノ宮は走る。
その途中で、銀朱が夢路の顔を湖の水で包み込んだ。
「くくく、このままお前を溺死させてくれるわ!」
息ができなくなり、夢路の表情が歪む。
炎を出して、顔を覆う水を蒸発させようとするが、それをさせまいと
夢路の掌を一際強く水の触手が押さえつけた。
このままじゃ、夢路が死ぬ。
ひた走り、湖の傍まで駆け寄ろうとして…がくんと妖ノ宮の駆ける速度が遅くなった。
………このまま、見捨ててしまえば、夢路は…死ぬ…。
見捨てて、しまえば…いいんじゃないだろうか。
このまま、銀朱が夢路を殺されるのを待って、逃げてしまえば。
頭の中をよぎった考えに、妖ノ宮の体の力が抜けてゆく。
だって、そうしたら、この間彼女達が言っていたように、翠と伽藍と暮らせるんじゃないか…?
訳のわからない計画に利用されることもなく。
見捨てても、いいんじゃないか…?
だって、あんなに殴られたじゃない。
ぐるぐるぐるぐる、頭の中を考えが回る。
助けようか、助けまいか、心の天秤も、ぐらぐらゆらゆら、揺れ動く。
息が詰まるような思いで夢路を見ると、彼とぴったりと目が合った。
…彼は硝子玉のような目をしていた。
すぐ傍まで来ているのに、妖ノ宮が助けるなんて、これっぽっちも考えてい無いような
そんな、他人に何も期待していない。
助けるの、助けないの。
ぐらりと天秤が傾ぐ。
『ほらよ―!』
担ぎ上げられて見た、似せ星たちの光が、頭の中をよぎった。
喋るなと、言われた次の日に半紙で挨拶して見せたときの、呆気にとられた顔
機嫌良さそうに笑った顔、いらついた顔、怒った顔。
『お前、意味わかんねぇ』
頭をなでたとき、ぽつんと言われた言葉。
「ゆ、ゆめ」
「お前が命を奪ってきた数多の妖に詫びながら幽冥へ落ちるが良い!!」
銀朱が叫ぶ。
その途端に、夢路の顔に押し付けられた水に、夢路が吐き出した、大量の気泡が混じった。
「―――――っ夢路っ!!」
かっと頭に血が上り、気がついたときには、もう夢路の名前を叫んでいた。
同時に、妖ノ宮の瞳が朱から金へ変わり、強大な妖力が解き放たれる。
その力は一目散に銀主へと駆け、彼の体に激しく襲い掛かった。
「な、なに?!」
驚きに銀主が目をみはる。
彼は声すら上げられぬままに、妖ノ宮の力に弾き消され、夢路の顔を覆っていた水もまた爆ぜ、消えうせた。
触手の拘束が解かれ、夢路の体が地面に崩れ落ちる。
「この、小娘がぁ!!」
体を再構成した銀朱が、邪魔をした妖ノ宮を憤怒の表情で睨みつけた。
すぅっと、彼が天高く腕を振り上げると、残った湖の水の殆どが持ち上がり、細かく分かれて槍となる。
まるで雨のように大量に空に浮かぶ水の槍に、顔色を変えた妖ノ宮を銀朱がはははと嘲った。
「後悔しながら、体を槍に貫かれ無残な姿を晒せ!」
銀朱が手を振り下ろす。
一瞬間があって、それから槍の雨が地上に向かってゆっくりと降り注ぐ。
湖の淵から、続く森の外まで、隙間無く、埋め尽くすように広がって。
「っく」
これでは逃げても無駄だ。しかし、妖力で炎を生んで、あれらを消せるのか。
消せたとしても、その次は?これを繰り返されたとしたら、持つのか…?
それでも、やらないよりはましだと、瞳を金に染めたまま、妖ノ宮が妖力で炎を生み出す。
しかし…。
「だから、余所見なんかしてる暇が、あるとでも思ってんのかって、言ったろ…?」
それを槍に向かってぶつける前に、夢路がゆらりと立ち上がった。
先ほどまで死に掛けていたのだ、表情は随分と苦しげではあったが
それでも、彼は闘志を失わず銀朱を睨みつけ、力を行使するために唇を開く。
「『左掌に浮かぶは、爆燃赤炎』『右掌に宿るは、爆轟青炎』……」
右手に、赤。左手に、青。
先と同じように、掌にそれぞれ炎を生んで、夢路は生み出した炎をそのままに、掌をぱんっと合わせた。
すると夢路の掌の中で、炎は混じりあい、紫色の炎へと変色する。
「『爆燃・爆轟っ和合紫焔陣っ』!!」
夢路が吼えたその瞬間、紫色の焔は、爆発的な広がりを見せ
槍の雨、湖の水、銀朱、その全てを燃やし尽くした。
後はただ、残骸で出来た霊水の雨が降る。
「はっ…はっ………」
荒い息を上げながら、ほぼ全て干上がった沈蛇湖へと夢路が入る。
底に蠢く銀色の水に夢路が手をつけると、水は微かに表面をさざめき立たせて沈黙した。
…夢路はしばらくの間そうしていたが、やがて立ち上がるとこちらの方に戻ってきて、妖ノ宮の前に立つ。
「…力を、吸えるだけ吸ってきた……これぐらいやれば五十年くらいは動けねえんじゃねえの」
ぼそりと言って、夢路は妖ノ宮と目を合わせた。
複雑な感情の色が一瞬だけ浮かんで、夢路は妖ノ宮の肩を強く掴む。
「っ僕の!」
「………」
「僕の願いは正義を蘇らせることだ!僕の大事なものは正義だけで、正義しかいない!
だから銀朱はなににも化けられるはずがないっ!なのに、なんで銀朱はお前の姿になった!
どうして僕は動揺した!なんでだよっくそ…わかんねえ!!」
激しく混乱している様子の夢路の姿に、ただ立ちすくんでいると、やがて彼は崩れ落ちるように膝をついた。
「ちょっと、夢路?!だ、大丈夫ですか?」
「……お前、約定」
「そんなことを言っている場合ではないでしょうに…あぁ、もう…」
同じように膝をついて、夢路の顔を覗き込もうとすると、いきなり夢路の額が肩に乗せられた。
「………まあ、いい…久しぶりに聞いたら…声…そんなに鬱陶しくはなかったから
…燃やさないでいて…や…るよ」
「うっ…?!ちょ…!」
いきなり夢路の体が圧し掛かってきて、妖ノ宮は地面に倒れこむ。
後頭部を地面にぶつけながらも、夢路の体を懸命に持ち上げ顔を覗き込むと、彼はただぐうぐうと眠っていた。
「……力の…使いすぎとか…でしょうか…」
呟くと、一気に体の力が抜けた。
はぁぁぁと、長い長いため息をついて、妖ノ宮もまた目を閉じる。
そういえば、自分もやけに眠たい。
力を一度にこんなに使ったのは初めてだからと、妖ノ宮は指先で閉じた瞼を撫でる。
この下にある目は、今何色なのだろう。
気になるが、確かめる術は、今はない。
手鏡もいつもは持っているのですけどと、詮無いことを考えていると
妖ノ宮の意識がふつりと唐突に遠くなり、彼女もまた深い眠りの中に落ちた。