何がいけなかったのだろうか。
就寝する前に、夫の顔を見たこと?
その後これ、無くしたらどうなるのかしらっていらぬ好奇心を抱いたこと?
それとも朝起きてから、もう一度夫の顔を見てしまったこと?
どきどきと胸を高鳴らせながら、刃物を持って立っても、夫が起きなかった事?
…なんにせよ、やってしまった事が変わる訳ではない。
可愛らしい新妻の好奇心によって、哀れディクトールの見事な髭は
綺麗さっぱり無くなってしまった。
「ディクトール。威厳をどこに捨ててきてしまったの。」
「お前が言うな!何のために私が髭を生やしていたと思っているのだ。」
「あぁ、うん、ごめんなさい。」
ここまで変わられてしまっては仕方が無い。
フィーリアは素直に謝った。
権力を持っていると一目でわかる威圧感も、
歳に見合った容姿もなくしてしまったディクトールは深い深いため息をつく。
その隣で、でもこれはこれでいいかも?とフィーリアが
その姿を横目で見て密かに思ったのは、彼にとっては知らぬ方がいい事実だろう。


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白く、細く、小さな手だ。
未だどこか丸みを帯びた、幼い、手。
だが、この手さえあれば、道を踏み外すことなく生きていける。
そう思うと堪らなくなって、クレメンスは、衝動的にフィーリアの手に口付けた。


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「おや、ピリンフルドガルフ十二世が顔を洗っている。明日は雨ですね。」
「え、そんなことが解るの?」
「えぇ。猫が顔を洗うと、次の日は雨なのですよ。」
「凄いのねぇ。」
「私はネコネコ騎士ですから。猫ちゃんのことなら何でもわかるのですよ。」
自らの食費すら、猫の餌に変えてしまうネコネコ騎士はフィーリアの
賞賛のまなざしに誇らしげに胸を張った。


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「フィーリア姫は、私がもらうよ。」
夜も深けきった頃、城下町を歩いていたフェリクスはくるりと後ろを振り向いて、
丁度真後ろについて歩いていたピリンフルドガルフ十二世に宣言した。
「だって姫様はお前にやるにはもったいなさ過ぎるよ。」
に゛ゃあ
ピリンフルドガルフ十二世が、抗議するように太い声で鳴く。
まるで、人の言葉を理解できるかのように。
そしてフェリクスも、猫の言葉が理解できるかのように言葉を返す。
「勝手?私が身勝手なのは、百五十年前から変わってはいないよ。
そのことはお前だって良く知っているだろう?ピリン候。」
己が呪いをかけた哀れな青年の形を模して、その名の通り夜を歩く生物は、
内容の無慈悲さとは裏腹に、ただ柔らかく微笑んだ。


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「ヴィンフリート、夫婦間において一番大切なことは何だと思っているの!?
愛よ、愛!愛があって、相手を思いやる気持ちがあればいいの!」
「……はたしてそうでしょうか、陛下。」
「当然でしょう。」
私を誰だと思ってるの、この国の王様よ。正しいに決まっているわ。
国民が聞いたら暴動を起こしそうなことを、フィーリア平然とした顔で言い捨てる。
その言葉にようやっと、椅子に座ってうなだれていたヴィンフリートは顔を上げた。



「……あの二人何があったの、エクレールさん。」
部屋の片隅で、尋常ではないその様子を気遣うアストラッドに
えぇっとですね、と実に言いにくそうにしながらエクレールは口を開く。
「戯れに姫様と執政官殿が剣で勝負をして…執政官殿負けちゃったんです。」
いともあっさり、速攻で。
あれは光の早さでした。
その現場を実際にその目で見ていたエクレールは、遠い目をして物語った。
うわぁと顔を歪めるアストラッド。
「……姫様は、騎士王の血を色濃く継ぐお方ですし、うん、仕方ないですよね。」
「うん、仕方ないよね。」
視線はばっちり二人から外して、エクレールとアストラッドはうんうんと頷いた。
フィーリア一体どの位強いのとか…とか、男のプライドずたぼろぼろ雑巾とか、全無視の方向で。
腕力だの強さだの、そんなものいらないと必死で言い募るフィーリアの励ましを
二人は耳をふさいで聞かないことにするのだった。


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果てないものを追いかけて追いかけて。
それだけで人生を終えるつもりだった。
その手を伸ばしてもらえる価値も無いのに、差し出してもらった手を握り返せたのは
なんて幸運なんだろうか。
(司教殿、あなたに感謝を。)
自分との友情からの行為だろうが、教会のための行為だろうが、
この温もりをつかめたのはあなたのお陰なのだから。


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私と猫とどっちが大事?
いちゃいちゃでれでれ、結婚したてのいわゆる蜜月という奴に頭をとろかされて
戯れにぶつけてみた愚かな質問に、薄ピンクの頭が傾けられた。
「うーーーーん。」
長い長い唸り声に、内心おいおい、とフィーリアは突っ込みを入れた。
そこは嘘でも私というべきところでしょう。
新婚ほやほや結婚したての妻と猫を天秤にかけて、こんなに悩めるとは。
さすがネコネコ騎士を名乗るだけの事はあるわ。
妙なところでフィーリアが感心していると、件のネコネコ騎士は
傾けていた頭を元の位置に戻して、ぽんっと手を打った。
「猫ちゃんは、お給料全てを投げ打って餌を与えてもいいぐらい好きです。」
実際それをやっていたのを知っているフィーリアは、その返答に苦笑した。
それを気にせず、フェリクスは続ける。
「でも姫様の事は、私の命を投げ打ってもいいぐらい愛しています。」
一気に上がった部屋の温度に、やってられねぇとピリンフルドガルフ十二世が
大きなあくびを漏らした。


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例えば、父親が栄華に溺れずまともな王であったなら。
例えば、己の国が未だ健在であったなら。
例えば、自分がまだ王子であったなら。
例えば、この国の王が未だ健在であり、彼女が王にならずともすんだなら。

いくつもの例えを重ねても、結局のところイリヤが望む答えには到底達しない。
例えを真実として、フィーリアとイリヤが結婚したとしても
それは騎士として生きる今のイリヤと、王にならんとして生きるフィーリア
現実に生きる二人が結婚した事にはならないのだから。
それを解っていながらも、手の内にある手紙は捨てられない。
彼女と同じ場所まで上る、その幻想を捨てられない。


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「フィーリア!兄ちゃんは王様の代わりに勇者になったんだ。
凄いだろう、勇者様だぞ!」
きらきらと光り輝く剣を持ち、コーバル水晶で出来た鎧を身に纏った兄は
実に嬉しそうな顔で私に向かってそう叫んだ。
「えぇと…お兄様…?」
「それでな、兄ちゃんはこれから」
兄が何事かを叫ぶ。
聞きたくない一言に、私は意識を故意に飛ばした。
ぷつり、暗転
場面はそこで切り替わり、私は清清しいとはとても言えない朝の目覚めを迎える。
差し込んできている美しい朝日も、可愛らしい鳥の鳴き声も全て憎々しい。
何だあの夢。
潜在意識とは到底思いたくない。だが、正夢なんてもっとお断り申し上げる。
「………魔王を倒しに行くって何事。」
わけのわからぬ、はじめて見るような兄のはっちゃけた姿を思い出し、
ぐったりと私はベッドに倒れこんだ。
とりあえずこの出来事は、無かった事にしようと思う。


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「寝てる。」
それはもう完璧に、すやすやと寝ている可愛らしい少女が、自分の目の前に一人。
ちなみにレミーが今いる場所は訓練場で、立派な屋外である。
人が寝るような場所ではない。
これが他の人間、例えばサボリ常習犯のメイドの少女だとか、その友人ならば
レミーはさっさと立ち去っただろう。
だがそこで寝ているのは、ターブルロンド国王女であらせられる
フィーリア殿下、つまりレミーの主だった。
「そりゃ城内で安全といえば安全かもしれないけど、何もこんな所で寝なくたって。」
なぁと肩に乗せている相棒に同意を求めると、相棒も同意見の様で小さく頷いた。
そこから視線をフィーリアに戻すと、彼女は起こすのが忍びないほどに、
気持ち良さそうに寝息を立てている。
しかしそれでもこのままにしておくわけにもいくまい。
とろとろとした心地よい日差しが降り注いでいるとはいえ、もう冬も近い。
空気は冷たく、このままにしておけば主は容易に風邪を引いてしまうだろう。
レミーは嘆息を漏らすと、自分の肩にかかったマントを外した。
「一つ貸しだからね、フィーリア様。」
そのままふわりと少女の肩にかけて、レミーはくるりと彼女に背を向けた。
目覚めるまでいるなんて、そんな自分らしくないことをするつもりはない。
…その欲求はあるけれど。


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