よく戦前夜は眠れないといった描写が、漫画などで出てくるが
それを言うならば、合戦の日取りが決まった日のほうが、
よほど眠れないと千尋は思った。
昼間、軍議があり、先にある平原に駐屯している常世軍へ奇襲を仕掛けることが決まった。
合戦だ。
兵力的には、さほど変わらぬ規模だというから、
多くの損害をこうむることになるだろう。
また、人が死ぬ。
そのせいか、夜の帳が下りてから、随分と長いことたつのに
未だ眠気は訪れない。
寝台の上をごろごろと転がってみても、
ただ柔らかい布団の感触が伝わってくるだけで
安らかな眠気は襲ってきそうになかった。
千尋はしかたなく、おもむろに起き上がると
枕元に置いていた、天鹿児弓を
手に取った。
そのあたりを適当に散策していれば、
疲れて眠くもなるだろう。
適当に考えると、千尋はしっかりと弓を持って
部屋から出た。






昼の堅庭から見える青空は素晴らしいが、
夜の星空もまた、格別である。
空を飛んでいるせいで、手が届きそうなほどに近い星々を眺めて
千尋は、ほうっと感嘆の息をついた。
眩い星の光が暗く沈んだ大地を、穏やかに照らしている。
その様を見ていると、まるで自分がちっぽけに思える。
綺麗…そう呟こうとした千尋だったが
背後から気配を感じて、素早く振り向く。
「…ここで振り返らなかったら、どうしようかと思っていたが…」
「あれ、忍人さん」
見知った顔に、ぱちくりと目を丸くして
千尋は構えかけた弓を下ろした。
「どうしたんです、こんな時間に」
「それは君にこそ問いたい」
忍人が、厳しい顔をしてこちらを見る。
しかしいつものことなので、千尋は平然と、散歩ですと答えた。
その悪びれない様子に、言葉を失ったように
一瞬固まって、忍人はため息をついた。
「……そうか」
「なんだか眠れなくって」
「眠れないからといって、軽々しくこんな時間に出歩かないでもらいたい。
将としての自覚を持ってくれないか」
苦々しい顔と声で言われる。
もうすでにこのお叱りも何回目だろうか。
ただ、いつもなら、そこですいませんと言えるのだが、
今は気持ちがナーバスになっているせいか
眉を寄せて忍人を見る。
すると、忍人も眉を寄せて千尋を見た。
「どうした」
聞かれて、なんでもとごまかそうとした千尋だったが、
首を振って、忍人に向き直る。
「眠れないんです。いつも。日取りが決まった日は」
「日取り…合戦のか」
「はい」
頷くと、苦い顔をされる。
あきれられたかな。
今更のような気もするが思って、千尋が見上げると
一拍おいて、忍人が口を開く。
「君は、戦が…」
怖いのか。
そう聞こうとしたのだろうが、忍人はそこで口を閉ざしてしまった。
しばらく待ってみるが、貝のように黙ったままだ。
…きっと、この人も怖いのだ。
千尋は思って、秀麗な彼の顔を見る。
彼は、失望するのが恐ろしい。だから躊躇う。
「忍人さんの言おうとするとおり、私は戦が怖いんです。きっと」
千尋は彼の質問に先回りする形で答えた。
彼は、それに目を伏せる。
「…戦うことが、嫌か。死ぬのが怖ろしいと」
「いえ、戦うことは怖くないです。
ただ、自分の決定一つで
命が零れてゆく、その責任の重みが、いつだって怖ろしい」
「だが、戦わねば、中つ国は取り戻せないだろう」
言われて、千尋は頷いた。
忍人の目が、心の中を覗き込むように、
まっすぐこちらに向けられている。
いつだって、この人は真っ直ぐだ。
思って、千尋も真っ直ぐ忍人を見つめた。
「そうです。戦わなければ、中つ国は取り戻せない。
だけど、取り戻すまでに零れる命を、惜しまない王に、
私はなりたくないんです。
いつまでも、自分の決定一つで人が死ぬことに
慣れないでいたい。当たり前には、したくないんです」
戦のために必要な犠牲はあるだろう。
しかし、命を当たり前のように駒として扱うならば、
どれほど表で優しく人に接したところでで
レヴァンタと何もかわりはしない。
訴えて、千尋はぎゅっと胸の辺りをつかんだ。
「君は…」
口を開いて、忍人がふっと息をついた。
「君は、甘いな」
「…はい」
「時には、勝つために、非情な策を取らざるを得ない時もあるだろう。
その時に君のその甘さは、邪魔でしかない。
それと、狭井君ではないが、民に近すぎる。
王とは、もう少し距離をとって他と接するものだ」
言われたことは、いちいち正論で、
千尋はぎゅっと唇をかみ締める。
しかし、そこでいきなり忍人は、表情を和らげた。
「だが、前線で戦うものにとって、君のその甘い優しさは救いにもなるだろう」
優しさの含まれた声に、ぱっと忍人の顔を見ると
彼は口の端を少しだけあげて、千尋に背を向ける。
「もう夜も更ける。送ろう」
視線で促されて、慌てて駆け寄ると、忍人が歩き出す。
横に並んで歩き出した時には、彼の顔は
真っ直ぐ前を見ていたが、その歩調が千尋の歩みにあわされているのに
千尋は、この人こそ、とても優しいと思った。