桜を忍人と見に行ってから、
ずっと見る夢がある。
どんな夢かも、朝起きたときには覚えていないが
とても悲しくてつらくて、そして大切な夢。
「なんだろう」
今年の収穫量を示した書面を見つめたまま、
千尋はことりと首をかしげた。
夢は、何を自分に見せているのだろう。
どういう夢なのだろう。
どうして、朝起きたときには、覚えていないのだろう。
ここ数日、それがずっと千尋の頭を悩ませている。
「なんでかな」
もう一度、呟いて千尋は、ため息をついた。
…今日は、覚えていられるだろうか。
千尋はぼんやりと考えて、それから黙って仕事を再開した。



桜が舞う。
桜吹雪が。
ひらひらひらひらと。
下にたくさんの人間が控える、その様を見下ろしながら
千尋は桜を見ていた。
「このたびは、皆の並々ならぬ尽力で
王座につけたこと」
ぼうっとしていると、口が勝手に動いて、
言葉をつむぐ。
その様子に、あぁ、これは夢かと千尋は思った。
「私が望む国は、みんなが安心して暮らせて、
笑っていられる国で」
演説の内容に、これは即位の、と、千尋は記憶を穿り返す。
確か、こういうことを喋った記憶がある。
喋りながら、千尋は下に居る人々の顔を見渡した。
中つ国の兵も、日向の民も、狗奴の一族も、皆喜びに満ち溢れた
顔でこちらを見ている。
風早や那岐たちも。
並ぶ顔ぶれに、ふっと顔を緩めそうになった千尋だったが、
あることに気がついて、心の中で疑問の声をあげた。
忍人が居ない。
確か、即位の挨拶の時には、風早の隣で
いつものように、しかめ面をしていたそのはずなのに。
どうして、だろう。
現実との差異に夢だから?と首をひねっている間にも
挨拶は続く。
もうすぐ結びだな。
挨拶が終われば、この夢も覚めるのだろうか。
思いながら、口を開く。
「私が望む国は、みんなが安心して暮らせて、
笑っていられる国で」
息を吸って
「もう戦で大事な人を失わないように
大切な人と、ずっと一緒に居られる平和な国を…」
そこで、あれっと、疑問が浮かんだ。
こんなことは、即位のときには言っていない。
こんな内容は、千尋は喋っていない。
即位のときのことを、夢に見ているのだと思っていたのに。
…夢だから?
疑問を浮かべていると、ふっと弾き出されるような感覚があって
千尋はいつの間にか、地面にへたり込んでいた。
「いたた…」
お尻をさすって、顔を上げると、そこには演説を終えて
お辞儀をする自分の姿。
「…夢だから?」
もう一度言って、千尋は立ち上がり、きょろきょろと辺りを見回した。
誰も彼も、拍手をしたまま、演説をした、夢の中の千尋を見ている。
自分のことは、誰も見ていない。
その様子に、やはり夢かと納得していると、
夢の中の千尋が宮の中に戻ってゆく。
その後を、なんとなくついてゆくと、
前の千尋は、王の間を抜け、自室を抜け、回廊の方へ駆けてゆく。
「もう、忍人さんってば、来てくれるって言ったのに」
その途中、出てきた人間の名前に、欠けた彼の姿を思い浮かべて
千尋が前から意識を離したその一瞬。
「きゃぁああああああ!!」
凄まじい悲鳴が前から響いた。
「な、なに?!」
急いで、前に意識を戻すと、そこには
へたり込んだ千尋と、賊の死体。
―それから、桜の花に埋もれて、安らかに眠る忍人の姿があった。
穏やかな顔つきで、床に倒れた彼は、
それこそ、ただ寝ているようにも見えたが、
魂がここにないことは、明らかだった。
金色の刀が、血まみれで床に刺さっている。
その傍で幾人も倒れた賊の死骸から、彼が王宮に入り込んだ
不埒ものを倒したのだろうと、千尋は冷静に推測して
そこで首を捻った。
でも、何故、彼が倒れているのだろう。
アシュヴィンや、ナーサティヤといった
並々ならぬ力をもった将ならともかくとして
こんな賊相手に、彼が倒れるはずがない。
夢の中とはいえ、嫌だなと千尋は思った。
不吉すぎる。
早くこんな夢、覚めればいいのにと、
息がないことを確認して、泣き出した夢の中の自分を見て願う。
「忍人さん、目を、開けてください…。
いやです、どうして、体調が良いって、言ったじゃないですか。
桜を、見に行こうって…破魂刀は、もう使わないって…
ねぇ、ねぇってば…!!」
「…破魂、刀…?」
そこで何故、破魂刀出てくるのか。
千尋が目を瞬かせた瞬間、ぐるりと景色が歪み
ガラスが砕けるように、世界が砕け、そして再生される。
それに驚く暇もなく、今度は目まぐるしく
世界が移り変わってゆく。
春から夏へ、夏から秋へ、冬が来て春が来て
…三度、四季が通り過ぎてゆくのを
ただ眺めた後、千尋は執務室で書面を眺める
自分のつむじを見下ろしていた。
まだ、この夢は覚めないのだろうか。
そう思った途端、目の前の千尋が顔を上げた。
そして彼女は、まるでこちらが見えているかのように、
目を丸くした。
「あなた…」
後ろを見て、横を見て、誰も居ないことを確認した後
そのあなたが、自分をさしているのだと
気がついた千尋は、驚きのあまり、一歩後ろに下がった。
見えている、何故!
「…あ」
「怖がらないで、誰も呼ばないわ!」
衛兵を呼ばれる!即座に身を翻そうとした千尋を
夢の中の千尋が制止する。
それに振り返ると、彼女は椅子を立って、
こちらの方へ歩み寄った。
「………」
「…あなた…」
そっと、手が伸ばされて、手が頬に添えられる。
「温かい…」
………触れた手には、確かに生きている温もりがあった。
それに驚き息を大きく吸って、千尋は気がつく。
花の、良い香りがする。
部屋の中を慌てて探すと、隅に、美しい花が確かに活けてあった。
…温度も、匂いもある夢。
いいや、そんなものは、ありはしない。
千尋はこういうときの常套手段である、
頬をつねる動作を行った。
「いっ」
加減もなくつねった頬が、じんじんと痛み、
これが夢でないことを告げている。
呆然とする千尋の顔を、夢の中の―いや、もう一人の自分が
覗き込んだ。
「…大丈夫…?」
「…だい、じょうぶ」
思わず目をそらすと、もう一人の千尋は、
寂しそうに笑った。
「そう、大丈夫ならいいの」
「あの、あなたこそ、大丈夫…?」
陰のある表情に、脳を通さず、言葉が口を突いてでた。
その千尋の言にはっとした表情を浮かべると、
もう一人の千尋は、やはり寂しそうに笑った。
「…だめね、この季節は、いつもこうなの…」
「この季節…?春って事?」
窓の方を見ると、春のうららかな陽気が外には広がっている。
春が嫌いだってことは、無かったはずなんだけどな。
胸に手を当てて考えていると、ふっと、向かいの千尋が笑みを零した。
「そう、あなたは…」
「え?」
「ねぇ、あなた、あなたは、葛城将軍が、忍人さんが、…好き?」
言われて、千尋は息を飲んだ。
それは、千尋が長い間心で暖めてきた気持ちであったからだ。
いつ好きになったのかといわれれば、はっきりとは言えない。
だが、千尋は忍人が好きだった。
怖く見えるけれど、実はとても優しいところだとか、
相手に対しての苦言を、相手のためを思って言えるところだとか。
そういうところが、とても。
それが表情に出ていたのか、向かいの彼女は
ふっと顔をやわらげた。
「そう、好きなのね」
言って、もう一人の千尋が窓の外に目をやる。
つられてそちらに視線を向けると、
窓の外は、桜吹雪が舞っていた。
綺麗、と、そう呟こうとした千尋だったが、
目の前の千尋の表情に、口をつぐむ。
彼女は、泣き出しそうな顔をして、窓の外をじっと見つめていた。
「…こんな日」
「え」
「こんな風に、桜が舞う日だったわ。
私の即位の式典があったのは」
言って、懐かしそうに、痛そうに、目を細める。
「私はね、この都を取り戻す戦いをしたときに
忍人さんと桜を見に行こうと約束していたの。
そして、即位の日。
とても桜が綺麗だったから…約束を果たしましょうと、
彼に言ったわ」
そこで、千尋の脳裏に、
先ほど見た床に倒れた忍人と、泣きすがる自分でない自分の姿がよぎった。
「だけど、約束は…果たせなかった…?」
知らないうちに声が震える。
それに頷いて、もう一人の千尋はぎゅっと唇を噛んだ。
「即位の式典で、再び常世の国に覇を握らせようとした者達が
王宮に入り込んで私の暗殺を狙っていたの。
その現場に遭遇した忍人さんは、それを阻止しようとして、死んだ。
戦った相手は、ただの賊だったわ。
…………今、そんな相手に忍人さんが
やられるはずが無いと思ったでしょう」
「えぇ…」
「だけど、彼は死んだわ。
本来であれば、あなたの言うように、死ぬはずも無かった戦いで。
…彼の体は、破魂刀のせいで、ぼろぼろだったから」

『…破魂刀は、もう使わないって…』

「……どういうこと?」
破魂刀とは、一体?
今まで思いもしなかった疑問が浮かび上がってきて、
千尋が尋ねると、目の前の彼女は何かを決意するように固く目を閉じた。
「……私もね、結局破魂刀がどんな技なのかは、
よく分からなかった。忍人さん、説明してくれなかったから。
でも、忍人さんは、破魂刀を使うたびに、咳をするようになって
倒れて、そして、弱っていった」
「…………」
「ムドガラ将軍を倒したときなんて、
死にそうな咳をして倒れて、一晩中眠り通しだった。
このまま、死んでしまうんじゃないかって思ったぐらい」
「…でも…」
それなら、破魂刀を使わないように、言わなかったの?
そう聞こうとして、それはあまりに無神経だと気がついた。
自分ならば、言わないはずがない。
それを汲み取ったのか、目の前の千尋は、静かに目を伏せる。
「…破魂刀を使わないでと、目を覚ました彼に言った。
そうしたらね、忍人さんはそれは命令か?と言ったわ。
そこで、頷いておけばよかったのでしょうね
だけど、その後彼が言ったの。
君の作る国のために戦いたいと。
私のために生きたいって。
…その顔が、あんまりにも柔らかかったから
私の不安は吹き飛んでいて、だから、彼を止められなかった。
いまでも、あの時王として命じていれば、隣に居てくれたんじゃないかと、
…生きていてくれたんじゃないかと、そう思うの」
きつく、目を閉じる目の前の彼女に、かける言葉も無くて
千尋はただ押し黙った。
破魂刀がそんな技だったなんて。
…では、自分のところに居る忍人の体は、今どうなっているのだろう。
ひょっとしたら…。
不安に胸が張り裂けそうになる。
「だから、もし、あなたのところの忍人さんが生きているのだとしたら
…あなたは、止めて」
不安にうつむく千尋に、小さく優しい声が届いた。
それに顔を上げて、そこで千尋が目にしたのは
呆れた顔で佇む忍人の姿だった。
「…君は、何をしている」
「なにって…」
辺りをきょろきょろとして見渡しても、
もう一人、自分がいたりはしない。
あれは、夢…?でも、しかし……。
眉間に指をあて、考え込む仕草をすると
なんでもいいがと、上から声が降ってくる。
「はい?」
「…なんでもいいが、疲れているのか。
いくら呼んでも返事がないから、
勝手に入らせてもらったが、それでも気がつかないとは…」
見上げると、心配したような顔があって
ぱちぱちと千尋は目を瞬かせる。
「執務の最中に、居眠りをしたことなど無かったろう」
「え、あぁ…そうですね。少し疲れているのかもしれません」
「そうか。休憩をしたらどうだ?
気分が紛れるようなことをすると、いいかもしれない」
「気分が、紛れるようなことですか」
頷かれて、千尋はふと思いついたままに、唇に乗せる。
「じゃあ、忍人さん。またお花見に行きませんか…?」
「花見?この間も行ったと思うが」
「でも、とても綺麗だったから。また行きたいんです」
言葉を重ねると、忍人は黙って考え込んでいるようだった。
千尋は、その間、居眠りをしている最中、下に敷いていた書簡を
元の通りに片付ける。
そうして、ちゃっちゃと片付け終わる頃、
忍人が千尋の方に向き直った。
「分かった、では行こう。桜を見に」




「わぁ、もう少し散っちゃってますけど…綺麗ですね」
日の光が眩しくて、額に手をやりながら
感嘆の声を上げると、忍人が隣で頷く。
桜並木は、緑の混じった桃色に染まり
美しく陽に照らされていた。
その中を歩きながら、千尋は忍人を伺うように口を開いた。
「私ね、居眠りしてる最中、夢を見ていたんです」
「夢?」
「はい。夢とは思えないような夢で」
ふっと、その瞬間いつかした会話が頭をよぎった。
『ここで、君と桜を見ようと…ずっと前から
俺は決めていた気がする』
「あ…」
『忍人さんと桜を見に行こうと約束していたの。』
声を漏らして、忍人の顔を仰ぎ見る。
彼は、不思議そうな顔をしてこちらを見ていたが、
千尋はそんな忍人にかまわず、彼の手を掴んだ。
「あの、忍人さん…破魂刀って、なんですか…?」
「なに?…何故、そんなことを」
即座に、忍人の顔色が変わった。
そのただ事で無い様子に、夢は夢でないのかもしれないと
思って、千尋は喉の奥から声を絞り出した。
「私が、夢で教えてくれたんです。
破魂刀は危ない技だって。
使うたびに体がぼろぼろになるって、
ねぇ、忍人さん、本当のことなんですか、それは」
「夢で、君自身に君が教わった…?
そんな馬鹿な話を信じるな。ただの夢だ、それは」
はき捨てるように言われて、千尋は無意識のうちに
手のひらを握りこんだ。
いつのまにか、二人ともが歩みを止めて
睨み合うように向かい合っている。
「…だけど、夢とは思えない夢だったんです」
「なにを…馬鹿馬鹿しい」
「桜を見に行こうって、約束してたって
夢の中の私は言っていました」
「…」
「宮を取り戻す戦いのときに、桜を見に行こうと約束したと。
だけど即位の式典で暗殺されかけて、
それを救って忍人さんは死んだって」
「…それは、ただの夢だ」
どこか様子のおかしい忍人に、千尋は続ける。
「だけど、匂いも温度も痛みもある夢でした。
もう一人の私に触られた頬は温かくて、
部屋の隅に活けられた花は良いにおいがして
そしてつねった頬は痛かった!」
「…それでも、夢は」
「なら、どうしてそんなに顔色を変えるんですか、忍人さん。
本当に破魂刀が危険な技でないのなら、
私の妄言など笑い飛ばせばいいのに、
どうしてそんなに必死に否定したがるんですか。
ねぇ、本当のこと、言ってください」
腕を掴んで揺さぶると、忍人の瞳が惑いに揺れた。
その態度に、もう一人の自分が言っていたことは
真実なのだと確信して、千尋は呆然と立ちすくむ。
「…忍人、さん」
震える声で名前を呼ぶと、忍人は千尋から視線をはずし、
大きく息を吐いた。
「…まいったな…君まで、同じ夢を見ていたのか…」
漏らされた言葉に、目を丸くする。
どういう意味かと視線で問いかけると
忍人は躊躇った末、渋々と言った調子で説明を始める。
「…君と、ここに桜を見に来て以来、
俺はとある夢を見るようになった。
…俺が経験したのとは違う、橿原を取り戻すための戦いの夢だ。
夢の中で、俺は君を守るために戦い、そして破魂刀を使っていた。
破魂刀は、君の言うとおり危険な技だ。
それを多用した夢の中の俺の体は、限界に近づきつつあった」
「…………」
「しかし、それでも俺は君のために戦いたいと願い、
そしてついに橿原の都を取り戻した。
その途中、夢の中の君と、桜を見る約束もした」
「だけど、即位のときに、暗殺の現場に居合わせてしまって」
忍人は頷く。
「そうだ、俺は、夢の中で死んだ。
破魂刀を使って」
何もかも、夢と同じ通りだった。
二人して、同じ夢を見ていたのだろうか。
…しかし、忍人が見ていたのは、忍人の視点の夢のようで
千尋が見ていたのは、無論千尋の視点の夢だ。
ぴったりと符号の合う、違う人物の視点の夢?
そこまで考えて、千尋は首を振る。
そんな無茶な考えよりも、違う平行世界の自分達の結末を
夢路を通してみていたのだと考えた方が、
いくらか現実味があるような気がする。
現代ではいざ知らず、この豊葦原では、
不思議は不思議でない。
忍人の顔を見上げると、忍人もまた、千尋を見ていた。
「不思議だな、何故こんな夢を見たのか…」
「きっと、破魂刀のことを私が知るために」
きっぱりと言うと、忍人はやはりという顔をする。
次に続く言葉も、彼は予想しているのだろう。
しかし、だからといって、言うのを止められはしない。
「破魂刀を使うのを、止めてください」
死んでほしくないのだ、忍人に。
「…やはり、そう言われるのか」
苦く笑う忍人に詰め寄って、千尋はその肩をつかんだ。
「どうして、そんな顔して笑うんですか。
破魂刀を使わないでって言っているだけなのに」
「だけ?破魂刀の強さは、君も良く知るところだろう。
あれは有用な手段だ」
千尋は愕然と目を見開いた。
「…だって、夢の中で、忍人さんは破魂刀を使って死んじゃったんですよ」
「そうだ。だが、俺がそうなるとは限らない。
あれは別の俺だ」
「そんな…」
そんな馬鹿な話は無い。
忍人だって、分かっているはずだ。
いずれ使い続ければ、あの結末を迎えることぐらい。
「死んじゃうんですよ?!大体、もう早々戦う事なんてないはずです。
戦争は終わりました。手に手を取って生きていこうと
みんな努力をしています!」
「そうだな、そうだろうが…平和なときでも、
戦の火種は生まれる。
そのときに、破魂刀を封じられていては
手遅れにならないとも限らない」
「でも、…わた、わたしは!」
その瞳に宿る、決意の色に、
知らず千尋は叫んでいた。
「私は、忍人さんが死ぬのは嫌です。
…そばに、居て欲しいんです」
驚いた顔をした忍人にかまわず、
千尋は続ける。
「忍人さんにそばに居て欲しい。
死なないで欲しい
破魂刀はもう、使って欲しくない」
「………………それは、命令か」
忍人が言う。
夢の中の、別の世界の千尋が間違えたといったときのように。
王として、彼にごまかされず
毅然と命令すべきだったと、別の千尋は言った。
だけど、自分はそう思わない。
迷いを振り切るように首を振り
きっと、忍人を見据えた。
「命令じゃ、ありません」
そう、これは命令ではない。
「これは、お願いです」
「お願い?」
「そうです。王でもなんでもない、ただの千尋の願いです。
あなたが好きな、ただの娘の。
…それでは、聞いて、もらえませんか…?」
ぎゅっと、両の手を祈るように握り締めて
忍人を見上げる。
死んで欲しくないのも、破魂刀を使って欲しくないのも
忍人が好きな、千尋の我侭だ。
王として、臣下を死なせたくないだとか
そんな公平な理由なんかじゃない。
だから命令は出来ない。
それは、忍人の忠節を利用した、とんでもなく、ずるい行為だ。
「忍人さんが、好きなんです。だから、死なないで」
ほろりと、目の端に溜まった涙が零れる。
…あとは沈黙が落ちた。
両名ともが、黙って目を伏せる。
「君は、怖いな」
ぽつりと忍人が呟いた。
「何を言い出すのか、俺にはまったく予想がつかない」
困ったように笑んで、忍人は目の中に入りそうだった
千尋の髪を、そっと横に分けた。
暖かな体温が、額を掠って去ってゆく。
「夢の中で、死んだ俺にすがって、君は泣いていた。
夢の中の俺は満足して逝ったが、
…君が泣くのを知っていて、そうすることは、
したくないと、今改めて思った」
はっと顔を上げて、忍人を見ると、
忍人はゆっくりと、確かに頷いた。
「破魂刀は、使わない。…ここに、誓おう。
王に命じられたのと、同じように
この誓いは守る」
「…っ!は」
喜んで、はい!と千尋が頷く前に、
忍人が、再び千尋の髪に手をかけて、梳いた。
前髪が、するすると、横に流されてゆく。
「…君の傍にもいよう。
君が息絶えるまで、隣に居るとは確約はできないが。
それでも、この命のある限り君の傍にいて」
風が吹いて、桜の花びらが天に舞い上げられてゆく。
その物語のような情景の中で、忍人は
今までに見た中で、一番優しく、甘く微笑んで
「千尋、君を見ていよう」
「ず…」
ずるい、と、その一言すら言えず、途切れ
真っ赤になって固まった千尋は、
どうしていいのか分からずに、無意味に手をわきわきさせた。
なんだ、この人。
君は恐ろしいと彼は言ったが、この人こそ、本当に恐ろしい。
なんなんだ、その、ここぞというときの優しさは。
頭がくらくらする。
砂糖に蜂蜜をかけたような甘さが、
脳を蕩かしてゆく。
思わず天を仰ぎ見ると、青い空に桃色が流れた。
それが桜の花びらと気がついたとき、
千尋は自然と、前髪を梳く忍人の手を取り、
自分の指先を絡めていた。
それに驚いた顔をする忍人に、
千尋は穏やかに微笑みかける。
「忍人さん。また、桜、見に来ましょうね」
春が来る限り、ずっと。
想いをこめてにっこりと笑うと、忍人も強く頷く。
その姿を見て、千尋は、今がとても幸せで、
だからこの幸せを続ける努力をし続けようと、固く心に誓った。