へたへたと音を立て、千尋は水差しを持ち、夜の天鳥船を歩いていた。
夜半、喉が渇いたと思って枕もとの水差しに手を伸ばしてみれば
空だったからである。
かつかつ、こつこつ。
廊下を歩くと、足音がすることにはっと気がついて、
千尋は音を立てないよう、歩き方を変えた。
悪巧みをしているわけではないが、
堂々と足音を立てて歩き、忍人あたりに見つかってしまうと、
『こんな夜中に、一人で歩くなど、君には将としての自覚があるのか!』
と、説教されかねない。
それはちょっと、と、まざまざとその光景を脳裏に描いた千尋は、
苦笑を浮かべて、右手の天鹿児弓を握りなおす。
もう、あの時の水場のように、
武器を手放したりはしない。
例えそれが、天鳥船、自陣であろうとも。
…だから、見つかっても勘弁してもらえないかなぁ、
もらえないなぁ、無理だろうなぁ。
とりとめなく考えているうちに着いた、水呑場の扉を開ける。
と、そこには予想していなかった先客の姿があった。
「あれ、リブ」
「おや、姫」
常世の国の青年に駆け寄ると
リブは、穏やかな笑みで千尋を迎えた。
「どうされたんです?こんな夜中に」
「喉が渇いて水が欲しくなったんだけど、
水差しが空だったの」
中身の無い水差しを、掲げて見せると
リブは、おやっ同情するような眼差しを千尋に向けた。
「や、それは災難でしたね。
…では、どうです、姫。水の代わりにお茶などいかがです?」
今度は、リブが自分の手にある急須を掲げた。
千尋が、ぱちくりと目を瞬かせ、彼の顔を見ると、
彼はただでさえ閉じている目を更に細める。
千尋は、自分の水差しと、リブの急須を見比べた後、
こっくりと頷いて、彼の誘いを受けた。



「や、すいません。二ノ姫をお迎えするには
少々手狭な部屋ですが」
常世の国の者たちのために用意した、部屋の一室に案内された千尋は、
リブに進められるままに、椅子に腰を下ろした。
リブは、汲んできた水を、火にかけると、
手馴れた動作で、あっというまに茶を入れた。
ふわりと千尋のところまで良いにおい漂ってきて
顔をほころばせると、目の前に茶杯がおかれる。
あつあつと湯気を立てているそれを、
手にとって口に運ぶと、千尋の向かいに掛けたリブが困ったような表情を浮かべた。
「なに、どうしたの?」
「いえ…ニノ姫が、そうやって素直に口にしてくれるのはありがたいのですが
少しは警戒していただけたらと…」
はてなにを、と首をかしげた千尋は、しばらくして、
合点がいって手を打つ。
「毒の警戒をしろってこと?先にリブが飲むまで待てと」
毒見がいない状態で、相手に入れさせたものを
先んじて飲んだことに、複雑な表情をされているのだと
理解した千尋は、もう一口茶を含んだ。
「や、そのとおりですが…」
さらにもう一口。
飲んで千尋は、にっこりと笑った。
「だって、私はアシュヴィンも、リブも信じているもの」
「はぁ…」
言うと、いささかあきれたような表情をされたので、
千尋はリブに首を振り言葉を重ねる。
「私は、あなたと、アシュヴィンの頭の良さを信じているわ
まさか天鳥船が空を飛んでいる間に、
私を殺すような馬鹿はしでかさないと」
「逃げ場がないからと…?
しかし黒麒麟に乗れば、空も飛べますが?
それに、反乱を起こして船をのっとるかもしれない
や、あくまで例えばの話ですが」
「だめよ、リブ。そもそも、私を葬る利点があなた達にはないのだし
アシュヴィンは部下を見捨てて逃れるような人じゃない
おまけに、反乱を起こしても、私が死んだら、この船がどうなるのかなんて
わかったもんじゃないわ」
動力源もわからぬままに飛ぶ、この天鳥船ではあるが、
おおよそおそらくと、見当のつけられているものはある。
それは、日向の一族の守り神、聖獣朱雀だ。
かの聖獣を荒魂から救い上げたとたんに、天鳥船が
動いたタイミングといい、ほぼ間違いは無いものと思われる。
その下敷きを元に考えると、千尋を認め、従う朱雀を動力とした天鳥船が
千尋が死んだ場合、飛ぶかどうかは怪しいものだ。
それがわからないアシュヴィンでも、リブでもあるまいと、
視線を送ると、リブは眉をはの字に曲げた。
「や、いやいや…すいません、試すようなことをいいました」
頭を下げ、謝罪して、それからリブは
茶杯を両手で持った。
「…初めて見たときは、本当にただの郎女に見えたものですが」
しみじみと、感慨深く言われて、千尋は、あぁうんと、
曖昧に相槌を打った。
中つ国に来たばかりのころ、そのころの千尋はならただの娘に見えたことだろう。
「だけど、今は違うもの」
背負うものがあって、守るものがある。
何も覚えていなかった、自由だった、あの時とは違う。
きゅっと唇を噛み締めると、茶杯に
熱いお茶が新しく注がれる。
「すっかり冷めてしまいましたね。や、申し訳ありません」
唐突になみなみと注がれた器の中身に、
千尋はぽかんと口をあけ、リブの顔を見上げる。
彼はただ、黙って千尋の顔を見てどうぞ、と茶を勧めた。
それに、なんだか毒気を抜かれてしまって
千尋は、「ずるいわ」と呟いた。
「アシュヴィンの腹心なんて
やっているとそうなるの?」
「えぇ。複雑で難しいお方ですから」
千尋の問いを、リブは笑顔で肯定する。
バランス感覚が大事なのですと、続けた彼に
たまらず噴出して、千尋は夜中だというのに
声を立てて笑ってしまった。
なんとなく、アシュヴィンが彼を重用する理由が
分かったような気がした。
彼の傍は落ち着く。とても。
すぅっと息を吸ってはいて、千尋はもう一杯お代わりをするまでは
ここにいようと思った。