意問山の地下深く、死者の蠢く幽冥の地で
一組の男女が向き合っていた。
男は女にとっての後見人であり、女は男にとって贄であった。
「いよいよ、か」
ぽつりと、男、五光夢路が独り声を漏らした。
今日、いよいよ長きをかけた悲願が成し遂げられる。
妖の力で高めた緋燧石でもって幽冥の門を開き、
少女を贄に捧げ、覇乱王、神流河正義を彼岸の果てより呼び戻すのだ。
それを思えば興奮しても良いはずなのに
不思議と心が騒がない自分に、なにやら不思議な気分を夢路は感じていた。
まるで、正義の復活が、どうでも良いように心が落ち着いている。
…いや、正義を僕は求めている。
そのための、こいつだ。
自らの淵から浮かび上がってきた考えを、頭を振って打ち消し
夢路は少女の正面へと立つ。
少女は微動だにもせず、ただ黙って地面へと視線を向けている。
うつむいた少女の頭に、夢路は緋燧石をかざした。
「………なぁ何で、逃げなかった」
その大人し過ぎる様子に、密かに思っていた言葉が零れた。
「お前、本当は逃げようと思えば逃げられただろ」
頭のいい少女ならば、夢路の目的も、自分の運命もわからなかったはずもなく
また、妖の力を使えば、赤月の連中の妨害など気に留めもせず
造作もなく逃げられただろう。
それをしなかった理由が本当に思い当たらない。
彼女に近しいものを人質にとっていたわけでもなく、
術をかけていたわけでもない。
その夢路の問いに、少女は面を上げてふっと自嘲するような笑みを浮かべた。
「…さぁ、どうしてでしょうね」
「どうしてでしょうねって、自分のことだろ」
馬鹿にされているのかと一瞬思ったが、穏やか過ぎる様子には
そんな雰囲気は欠片も見当たらず、夢路は呆れて眉をしかめる。
その夢路の表情に、少女は瞼を伏せた。
「本当に、ね」
「分からないのか」
重ねて問うと、少女が伏せた目を上げ、視線がかち合う。
しかし、それが交差したのは一瞬で、すぐに彼女は夢路から視線を外した。
「……そう、ですね。どうしてだか、本当は判ってはいます。
だけれど…言いませんよ。絶対に言いません。
私が逃げなかったわけ、私が生贄に大人しく捧げられようとしているわけ
……自分で考えなさい、夢路」
自嘲するような笑みを消し、完全に瞼を閉じた少女の唇は
それ以上何も語らないとでも言うように、固く引き結ばれている。
夢路は舌打ちをし、緋燧石を彼女に近づけた。
石は、赤く明滅し、やがて辺りに目もくらむような閃光を―
暗闇の中に、ぼんやりと天井が浮かび上がる。
まどろみから目覚めた夢路は、ぐったりとした表情で目頭を押さえた。
今日もまた、この夢だ。
遺児として担いだ少女をを幽冥に捧げ、
代わりに覇乱王をこの世に呼び戻してから、三月。
この夢を見なかった日は一度も無い。
そのせいだろうか。
あれほど取り戻したいと考えていた
覇乱王が帰ってきたというのに、ちっとも嬉しくないのは。
それどころか、ぽっかりと胸に穴が開いたように寂しくて、苦しい。
「全然、意味、わっかんねぇ」
こういう、思いをしたくなくて、呼び戻したはずなのに
どうして寂しいのも苦しいのも、終わらないのか。
どうして。
あの日、あの時、彼女が逃げていれば
きっと自分は怒り狂っていただろうが
こんな思いだけはしなくてすんでいたのだろうか。
『…自分で考えなさい』
少女の声が、頭の中で木霊する。
「………考えてるけど、分かんないんだよ」
妖ノ宮、と、呼ぶ声は声にもならずに溶けて、消えた。
再び、夢路が眠りについたころ
部屋の隅に立てられていた蝋燭が
火の気も無いのにひとりでについて、燃え上がった。
じりっと音を立てる炎の影に重なるようにして
着物を着た少女の影がぼんやりと壁に揺らめき映る。
影は、表情も無いのにわかるほど痛ましい感情で
夢路を見た後、炎と一緒にふっと部屋から掻き消えた。
後に残されたのは、再び何も分からず、何も知らないまま
少女を失う夢を見る男だけ。
夢の中でさえ、本当に欲しかったものを
自分の手で失う男だけが、取り残された。