「千尋、おはようございます」
自室の扉を、爽やかな挨拶とともにくぐった風早に、
挨拶し返そうと口をあけた千尋は
「くしゅん」
そのままくしゃみをひとつ。
おまけに、その後咳をこほんこほんと二回。
ずびっと鼻をすすった所で、千尋はなんだか喉が
いがいがしていることに気がついた。
「風邪かな」
呟いた声は、くぐもった鼻声で、
まさしく風邪の引き始め、といった様子である。
「大丈夫ですか?」
目の前まで来た風早に問いかけられて、
千尋は頷いた。
「大丈夫」
そうたいして重い症状でもないし、
今日早めに寝れば、治ってしまうだろう。
楽観的にそう片付けると千尋は、
風早の顔を見上げた。
「それで、どうしたの、風早」
「あぁ、サザキのところで、何か催し物をするそうなので、
どうですかと誘いに」
「あ、うん、行く行く」
サザキのところで、時折開かれる催し物は
宝物を皆で持ち寄って一等を決めるとか、鍋パーティーだとか
他愛もないものばかりだが、どれも戦時中だと忘れるほどに、楽しい。
参加する機会を逃してなるものかと、千尋が勢い込んで即答すると、
また咳が出た。
こふんこふんと、今度は長く続く咳に、
口元を押さえていると、背中がなでられる。
「本当に大丈夫?」
「うん」
なおも咳き込んでいると、風早はあっと声を上げた。
「そういえば…千尋、ちょっと手を」
ちょいちょいっと、指先で手を出すように言われて、
千尋は素直に手を出した。
そこに、ころりと、何かが落とされた。
見ると、手の上には、飴玉が乗っていた。
白地に、赤でストロベリーと文字の書かれた包み紙の。
どうみても現代産のそれに、風早の顔を見ると
彼は不思議そうに首を捻る。
「それだけ、何故かそれだけ無事だったんですよね。
どうせなら、財布が無事であってくれたほうが良かったんですが」
「あぁ、うん…そう、かも?」
財布があっても、通貨が使えないんじゃどうしようもないが
とりあえず頷いておく。
そういえば那岐にも突っ込まれていたような…?
掘り返した記憶に、そんなにお金が惜しかったのかしらと
首をかしげて、千尋は手の中の飴をしげしげと眺めた。
すると、すみのほうに小さく、のど飴と記載されている。
「あれ、のど飴?」
「えぇ、一応のど飴なので渡したんです」
「イチゴ味なのに?」
「えぇ。だから買ったんですが」
へぇっと相槌を打ち、手の中の飴に視線を戻すと
プラスチック紙で出来た包装が、日の光でつやつやと輝いていた。
それを見た途端に、手のひらの中の飴の、つるりとした感触が急に気になり始める。
決してこちらにはない質感のそれに、
千尋はなんだか落ち着かなくなった。
今はもう、現代にいたころのほうが、夢物語のように思えてきているのに
目の前にこんな代物を出されると…困る。
千尋はぎゅっと飴を握ると
風早のほうに手を突き返す。
「……あの、やっぱりなんだか悪いから」
「千尋?」
「そんなにひどいわけじゃないし、気を使わないで。大丈夫」
わざと満面の笑みを浮かべて言うと、風早は一拍置いてから
千尋の手をそっと押し返す。
「駄目ですよ。きちんと舐めて」
「あ…でも、他に飴、あるの?風早の分は?」
「それ一個です。だから千尋に」
「でも」
「いいから。…ね?」
風早の優しく落ち着いた声が降る。
その穏やかな声で『ね?』を、やられると、どうにも弱い千尋は、
不承不承頷いた。
「……風早って…ずるいわ」
それでも最後の抵抗で、ふてくされた声で言った千尋に、
風早が、そうですか?と、どことなく嬉しげな顔で笑ったものだから
千尋はわざと目の前で飴を口の中に放りこんだ。
手の中のつるつるした包装紙は、もう気にならない。
ものすごく負けている気がした。
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